何が爆発したかというと・・・
私のネガティブ感情でございます。
それは昨日のことです。
昨日のブログのお話になりますが、
昨日私はドーンと気持ちが落ちまして、
「じゃあ、落ちた場所から書こう」と、
「宇宙の(エネルギーの)リズム」の法則、
つまり、上がったら下がる、下がったら上がる、
それはもう「絶対」のリズムとなっており、
落ちた時は、そこに静かに、静かにいましょう、
そうすれば自然に上がってくるから・・・
とかなんとか尤もらしきことを
宣(のたも)うた。
「このブログを書きながら少し上がってきました」
とかなんとか言っちゃって。
ところが、その後そうは行かなかった
という、
今回はその補足というか
一番大事なところかも
ということでして、
なぜなら、昨日のブログを読んでくださった方で、
とても素直に、落ちたところに静かにしてようと試みたけれど、
上がりませんけど・・・全然上がりませんけど〜〜!!!
と(私のように)大惨事が起きていたらこりゃ大変と思いまして、
その後、私に何が起きて、ようやく「本当の静けさ」にいたり、
「浮上してきた」という現在に至ったかを責任を持って
お話させていただきたいと思います。
昨日のブログに
「かつての私でしたら、
いや、今でもたまにやらかしますけれど、(マスター・ヨーダレベルはほど遠い。)
ブルーを更にブルーで彩って、「別にそこまでわざわざ落とさなくても」という事態を招いていましたが、
ようやく「まずは感情をそのまま感じて、とりあえず、観る」ということは
少しできるようになってきました。」
と、書きましたが、
ブルーを更にブルーで彩って、「別にそこまでわざわざ落とさなくても」という事態
を、まんまと招きました。
落ちたところで静か〜〜にして浮上することに成功した方、素晴らしい。
しかし、私のように「ブルーにブルー」つまり、
ネガティブな感情がもう溢れ出て止まりません!ということが起きた方、
それを止めないでいい!!!
ほとばしれ、ネガティブ感情!!!
ここで「いや、静かにしてなきゃいけない」と、
出てきたがっている感情をギューギューと抑えてしまうと、
その場はなんとか成功しても、必ず、今度は、もっと大きい形でやってきます。
さあ、私は「あかん。ブログで書いた通りになってないじゃんか!
どうしよう、ヤバい、止まらない!あぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
誰か〜〜〜〜〜!!!」
落ちている時というのは、ネガティブ感情の「待ってました」の機会でして、
トピックはなんでもいいのですが、だいたい自分の日々、人生の中で、
大事な部分、気になる部分、悩んでいる部分、不安に思っている部分、自信のない部分を
攻撃してきます。
ネガティブな感情というのは色々ありますが、
行きつくところは対自分か、対誰か、となると思います。
「どうせ、私なんか・・・どうぜ私なんか・・・」
もしくは
「アイツが、アイツが、アイツが〜〜〜!!!!」
という感じになるかと思います。
自分を責めるか、人を責めるか。
さて、もう止められないネガティブ感情、
止められないのだから、もうしょうがない。
心の中では、溢れ出るネガティブ・ワード。
怒りやら悲しみやら(因みに怒りの源は、悲しみ、なのですよ、実は)
日頃押さえつけていたのか、我慢していたのか、
出口を見つけられないままでやってきた
気持ちが、まさに、爆発していたのでした。
ここで大きなミスを犯すところだったのです。
私はそのネガティブ感情の大爆発のまま、
結論を出し、行動に出てしまうところでした。
「もう、無理、もう、私には無理なんだ」と。
それは、爆発が一瞬静まったときに訪れました。
一見自分は少し冷静になったつもりで。
そして、その「結論&行動」にそのまま乗せられる前に、
私は止まった、というか、危機一髪、止まることができました。
「そういえば、この前、○○さんが、
ネガティブ感情に襲われた時は、それを思いっきり言葉にして書いてみるといいって
言ってたなあ」
と思い出したのです。
「よし、執行する前に、試しにそれやってみようじゃないか」と。
そして、私は「1日3ページジャーナル」というのを毎日書いているのですが、
昨日は、3ページまるまるその時のネガティブな感情を言葉にして埋めました。
不思議なもので、心の中でそれらを溢れさせても、結局「形」にはなっていないので、
「出口」を見つけたことにはならないのですね。
言葉にする、ノートに手書きする、というプロセスで、それが「リアルな出口」を見つけるのです。
そしてね、とんでもない言葉が出てきても、そのまま書くのです。だって、誰も読まないのだから。
書き出すと「ヤバくない、こんなこと書いちゃうの?」と一瞬「頭」の方がたじろぐのですが、
書くんです。頭ではなくて「感情のまま」、恨みツラミ、怒り、悲しみ、
なんでもいいから、出てくるがままに書くのです。
行き場のない感情を言葉という形に「してあげる」のです。
書き終わった後。
まず私の感情は「気が済みました」。
出口を見つけたからです。
解決した、とか、答えが出た、というわけではありません。
けれど、爆発→結論→行動、はやめました。
その「結論」を明日まで保留にしようと思えたのです。
ここでようやく、「静けさ」がやってきました。
その静けさは時間が経つにつれ、より穏やかになってゆく、
自分が「自分の中心」に戻ってゆく・・・そのような感じでした。
もう夜でしたので、
私はそのまま眠りにつきました。
そして今朝目覚めた時、
ああ〜〜〜あの時、あのまま結論出して、行動しないで、本っ当に良かった
と、心から思ったのです。
私はようやくたどり着いた「本当の静けさ」の中で、心からそう思ったのです。
「私が心から願うことは、あの感情の中にあるんじゃないんだ」と。
でも、あの感情を気が済むまで感じて、ちゃんと出口に連れていかなかったら、
きっと分からなかったな。。。と。
感情というのは、
あらゆる経験から、ある意味「リアクション」のような形として起こるものです。
特にネガティブな感情は、まるでパブロフの犬のように、
いつものあの時、いつものこんな時に・・・何度も何度も。
そして、感情は、「宇宙のリズムの法則」の中で、
上がったり、下がったりする流動的なもので「真実」ではないのです。
でも、私たちの人生をナビゲートしてくれる大事なものでもあります。
昨日私に起こったことは、「ああ、また感情に呑まれた」という
情けないものでしたけれど、
「本当の静けさ」に行き着くためには、
ネガティブだろうと、その感情が一旦現れたら
せき止めないで流してあげることが大切なこと、
それはすぐさま、その勢いで「結論を出し」「行動に移す」のではなく、
まずはそれらに「リアルな出口」を作ってあげる、
つまり「書いて、その言葉を形にする」ということが
一つの手段になるのだ、ということを発見することができました。
自分の「本当のところ」から出る結論、選択、行動のみが、
「本当に辿り着きたい場所」を知っています。
そして、「本当のところ」というのは、感情ではありません。
「本当のところ」というのは
自分の中心にある「本当の静けさ」の中でしか分からないのです。
でね、この静けさがずっと続くわけではないのが、
人生、修行なり。
「ああ、また私はやるんだな、これを」と思うのだけれど、
螺旋階段を上ってるんだと思えばいいさ。
そう、「げ、また同じ場所で同じことをやってる」と思っても、
実は、前回よりちょ〜〜っと上にいる。
さてさて・・・
まさかの「その後」となりましたが、
この私の個人的なすったもんだ劇場が
どなたかのお役に立ちますように。。。
(お騒がせすったもんだ劇場、つづく。)
私のネガティブ感情でございます。
それは昨日のことです。
昨日のブログのお話になりますが、
昨日私はドーンと気持ちが落ちまして、
「じゃあ、落ちた場所から書こう」と、
「宇宙の(エネルギーの)リズム」の法則、
つまり、上がったら下がる、下がったら上がる、
それはもう「絶対」のリズムとなっており、
落ちた時は、そこに静かに、静かにいましょう、
そうすれば自然に上がってくるから・・・
とかなんとか尤もらしきことを
宣(のたも)うた。
「このブログを書きながら少し上がってきました」
とかなんとか言っちゃって。
ところが、その後そうは行かなかった
という、
今回はその補足というか
一番大事なところかも
ということでして、
なぜなら、昨日のブログを読んでくださった方で、
とても素直に、落ちたところに静かにしてようと試みたけれど、
上がりませんけど・・・全然上がりませんけど〜〜!!!
と(私のように)大惨事が起きていたらこりゃ大変と思いまして、
その後、私に何が起きて、ようやく「本当の静けさ」にいたり、
「浮上してきた」という現在に至ったかを責任を持って
お話させていただきたいと思います。
昨日のブログに
「かつての私でしたら、
いや、今でもたまにやらかしますけれど、(マスター・ヨーダレベルはほど遠い。)
ブルーを更にブルーで彩って、「別にそこまでわざわざ落とさなくても」という事態を招いていましたが、
ようやく「まずは感情をそのまま感じて、とりあえず、観る」ということは
少しできるようになってきました。」
と、書きましたが、
ブルーを更にブルーで彩って、「別にそこまでわざわざ落とさなくても」という事態
を、まんまと招きました。
落ちたところで静か〜〜にして浮上することに成功した方、素晴らしい。
しかし、私のように「ブルーにブルー」つまり、
ネガティブな感情がもう溢れ出て止まりません!ということが起きた方、
それを止めないでいい!!!
ほとばしれ、ネガティブ感情!!!
ここで「いや、静かにしてなきゃいけない」と、
出てきたがっている感情をギューギューと抑えてしまうと、
その場はなんとか成功しても、必ず、今度は、もっと大きい形でやってきます。
さあ、私は「あかん。ブログで書いた通りになってないじゃんか!
どうしよう、ヤバい、止まらない!あぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
誰か〜〜〜〜〜!!!」
落ちている時というのは、ネガティブ感情の「待ってました」の機会でして、
トピックはなんでもいいのですが、だいたい自分の日々、人生の中で、
大事な部分、気になる部分、悩んでいる部分、不安に思っている部分、自信のない部分を
攻撃してきます。
ネガティブな感情というのは色々ありますが、
行きつくところは対自分か、対誰か、となると思います。
「どうせ、私なんか・・・どうぜ私なんか・・・」
もしくは
「アイツが、アイツが、アイツが〜〜〜!!!!」
という感じになるかと思います。
自分を責めるか、人を責めるか。
さて、もう止められないネガティブ感情、
止められないのだから、もうしょうがない。
心の中では、溢れ出るネガティブ・ワード。
怒りやら悲しみやら(因みに怒りの源は、悲しみ、なのですよ、実は)
日頃押さえつけていたのか、我慢していたのか、
出口を見つけられないままでやってきた
気持ちが、まさに、爆発していたのでした。
ここで大きなミスを犯すところだったのです。
私はそのネガティブ感情の大爆発のまま、
結論を出し、行動に出てしまうところでした。
「もう、無理、もう、私には無理なんだ」と。
それは、爆発が一瞬静まったときに訪れました。
一見自分は少し冷静になったつもりで。
そして、その「結論&行動」にそのまま乗せられる前に、
私は止まった、というか、危機一髪、止まることができました。
「そういえば、この前、○○さんが、
ネガティブ感情に襲われた時は、それを思いっきり言葉にして書いてみるといいって
言ってたなあ」
と思い出したのです。
「よし、執行する前に、試しにそれやってみようじゃないか」と。
そして、私は「1日3ページジャーナル」というのを毎日書いているのですが、
昨日は、3ページまるまるその時のネガティブな感情を言葉にして埋めました。
不思議なもので、心の中でそれらを溢れさせても、結局「形」にはなっていないので、
「出口」を見つけたことにはならないのですね。
言葉にする、ノートに手書きする、というプロセスで、それが「リアルな出口」を見つけるのです。
そしてね、とんでもない言葉が出てきても、そのまま書くのです。だって、誰も読まないのだから。
書き出すと「ヤバくない、こんなこと書いちゃうの?」と一瞬「頭」の方がたじろぐのですが、
書くんです。頭ではなくて「感情のまま」、恨みツラミ、怒り、悲しみ、
なんでもいいから、出てくるがままに書くのです。
行き場のない感情を言葉という形に「してあげる」のです。
書き終わった後。
まず私の感情は「気が済みました」。
出口を見つけたからです。
解決した、とか、答えが出た、というわけではありません。
けれど、爆発→結論→行動、はやめました。
その「結論」を明日まで保留にしようと思えたのです。
ここでようやく、「静けさ」がやってきました。
その静けさは時間が経つにつれ、より穏やかになってゆく、
自分が「自分の中心」に戻ってゆく・・・そのような感じでした。
もう夜でしたので、
私はそのまま眠りにつきました。
そして今朝目覚めた時、
ああ〜〜〜あの時、あのまま結論出して、行動しないで、本っ当に良かった
と、心から思ったのです。
私はようやくたどり着いた「本当の静けさ」の中で、心からそう思ったのです。
「私が心から願うことは、あの感情の中にあるんじゃないんだ」と。
でも、あの感情を気が済むまで感じて、ちゃんと出口に連れていかなかったら、
きっと分からなかったな。。。と。
感情というのは、
あらゆる経験から、ある意味「リアクション」のような形として起こるものです。
特にネガティブな感情は、まるでパブロフの犬のように、
いつものあの時、いつものこんな時に・・・何度も何度も。
そして、感情は、「宇宙のリズムの法則」の中で、
上がったり、下がったりする流動的なもので「真実」ではないのです。
でも、私たちの人生をナビゲートしてくれる大事なものでもあります。
昨日私に起こったことは、「ああ、また感情に呑まれた」という
情けないものでしたけれど、
「本当の静けさ」に行き着くためには、
ネガティブだろうと、その感情が一旦現れたら
せき止めないで流してあげることが大切なこと、
それはすぐさま、その勢いで「結論を出し」「行動に移す」のではなく、
まずはそれらに「リアルな出口」を作ってあげる、
つまり「書いて、その言葉を形にする」ということが
一つの手段になるのだ、ということを発見することができました。
自分の「本当のところ」から出る結論、選択、行動のみが、
「本当に辿り着きたい場所」を知っています。
そして、「本当のところ」というのは、感情ではありません。
「本当のところ」というのは
自分の中心にある「本当の静けさ」の中でしか分からないのです。
でね、この静けさがずっと続くわけではないのが、
人生、修行なり。
「ああ、また私はやるんだな、これを」と思うのだけれど、
螺旋階段を上ってるんだと思えばいいさ。
そう、「げ、また同じ場所で同じことをやってる」と思っても、
実は、前回よりちょ〜〜っと上にいる。
さてさて・・・
まさかの「その後」となりましたが、
この私の個人的なすったもんだ劇場が
どなたかのお役に立ちますように。。。
(お騒がせすったもんだ劇場、つづく。)