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反攻か敗北の認知か、制度か熱意か

2013-05-27 15:40:00 | 欧州情勢複雑怪奇
世の中、いろんな説を唱える人がいて、その説を採用する主体がある。後からみればどうしてあんな説を採用したのだろうと疑問を持つことも多々あるのが歴史というもの。そして、後から見た人はそれは単なる間違いとか勘違いとしか思えない。というか、多くの場合それしか証明できない(このへんに文献証拠を第一に考える歴史学の限界がある)。
 
しかし、よーく細部を見たり、その時々のメディアが仕掛けたムードなりを見ていくと別のストーリーが見えてくる。と、ここで、その時々の歴史学オーソリティーにいない人たち、すなわちジャーナリスト系とかマイナーな大学の先生とかの出番が回ってくる。マイナー系は最初オーソリティー系にかなわず、無視され、次に罵倒される。しかしその声が持続的であれば、いつかそっちの方が通説をなすようになる。そこにいたって、オーソリティ系はいつの間にかその説を当然のものとして取り扱うようになる。
 
パラダイムはシフトする。そして、そのために最も重要なことは言論の自由、出版の自由であり、それよりももっと、こういう変化を楽しめる言論活動を面白く支えられる人が多数存在することだろうと思う。
 
と、最近起こった、著名なエコノミストたちによる論文に誤りがあったという話が興味深い。
 
「経済コラムマガジン」さんの記事を引用させてもらうと、
ハーバード大学のラインハート教授、ロゴフ教授の2010年の論文が間違っているという指摘があり、ちょっとした騒ぎになっている。両教授の論文は、過去 800年の財政と経済成長の関係を調べ、財政の債務(累積)がGDPの90%を超えると経済成長がマイナスになるといった結論を出している。要するに両教授は財政赤字を放っておくと経済が低迷すると結論付けている。
 
ところが、最近、ハーンドンというMITの大学院生が、この論文は入力データに問題があり、結論として間違っていると指摘した。この学生の言うところの正しいデータを入力すると、マイナスどころか2.2%の経済成長になるという。どうもこの指摘が正しいようである。
http://adpweb.com/eco/eco755.html
 
各国で声高くいわれていた、緊縮財政万歳主義とでもいうべき主張はこういう説を受けてのものらしい。受けて、なのか、それが尻を叩いて、なのかはわからないが。
 
Markethackさんの下の記事にある図がわかりやすい。政府負債が90%を超えたら、過去の記録からいえば経済成長はできないのだ、とこれらの有名大学のエコノミストさんたちはおっしゃっていたが、そんなことないじゃん、という話。

「ごめんなさい」では済まされない! 財政切り詰め策の根拠となった論文に誤り 欧州連合の方針に疑問
http://markethack.net/archives/51871682.html
 
それに対して、世界中のエコノミスト業界は騒いでいるのだが、なかでも、いろんな意味で著名な人、ポール・クルーグマン教授が問題の二人に対して、彼らは聖人としての地位を失っただけでなく、あざけりの対象になった、とか書いたらしくて、さらにヒートアップしている模様。
 
それに対して問題のお二人は、「Spectacularly Uncivil Behavior’」とか言う。も~のすごく野蛮!! という感じ。西洋人同士の罵倒フレーズとしては、もう絶交って感じのフレーズといっていいでしょう。どうするんでしょう。
 
さてしかし、考えてみるに、経済学も科学のうちならば、これを誰か検証してなかったのか?という疑問がもちあがる。ほんとに誰も検証してなかったんだろうか? わからない。
 
思うに、検証というか、こんなの嘘、でたらめ、為にする議論だ、という議論は結構あったのではなかったか。だって、緊縮財政派の言ってることおかしいってのはず~っとあるんだから。
 
しかし、それにもかかわらず「聖人化」されるほど持ち上げられていたのは、説の信憑性というよりも、そういう筋から出ていたから、そういう採り上げられ方をしていたから、ではなかろうか。つまり、政治枠みたいなお説。(だからその説の根拠となるデータを覆しても無意味と投げていた、と)。
 
有名な大学の有名な教授が唱え、主要メディアがそうだと言い切る。そして、御用学者系というか取り巻き系が発生する。そしてそれが聖域化してしまう。実際にはその業界でも、これはへんだと言っている人がどれだけいたとしても、無視。
 
ということは、今回の「論文の誤り」なるものは、この説の真偽というよりも、この説を奉じてきた人々でない、他のグループによる反攻、または、説を奉じてきた人々による敗北の認知か、そのいずれかではなかろうか、という気がする。
 
パラダイムシフトは説の真偽によっては行なわれないことも多々ある。しかし、いずれにしても、反主流派が有意に活発に動き回れる余地がないと、展開も転換も上手に行なわれないとはいえるだろう。言論の自由、意見開陳の自由(つまり出版の自由)というのは大事だ。
 
でも、歴史的にはしばしば発禁本とかあるんだけど、それでもその著者をかくまう別の国(日本だったら別の大名とか)があったり、勇気ある中産階級なんかがあると説も人も生き延びる。
 
ということは、究極的な問題は制度的保障ではなく、人の熱意の方なのかもしれない。人の歴史はおもしろい。
 
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