ウクライナの人々には本当に気の毒な一年でした。というかここから先ずっと大変な目にあうんだよね。
で、前から書いている通り、ウクライナに追加の支援を申し出る国はないしIMFもこれ以上俺らにはどうもなりまへんな、となって、今年中の作業は終わりですと言ってキエフを去ったらしい。
ウクライナ大統領、IMFに金融支援増大を呼びかけ
http://japanese.ruvr.ru/news/2014_12_20/281520691/
IMFのウクライナ・ミッションについてはこれまでの時点で作業を完了した事が明らかにされており、IMFウクライナ・ミッションは経済改革における政権の気構えが認められたと報告していた。
IMFウクライナ・ミッションの作業は来年2015年初頭もキエフで続行される。
だけど、そんなこと言ったってIMF自体が後述するように機構改革を巡って行き詰まりだし、お金がないのではあるまいかとも見える(その前に、オリガルヒが私兵を持って乗り込んでるところが本当にちゃんとした国家と言えるのかという大問題がある)。
このへんで書いた通りで、助ける国はない状況は変わらないものと見えます。
バルバロッサ作戦 v2: で、ウクライナを誰が助けるの?
■ ウクライナ危機の歴史的投影
さて、で、一般にウクライナ危機と言われるけど、でも、今年起ったことは確かにウクライナで爆発したものではあったが、実は相当にいろんな背景を持った爆発だった。
で、私が興味を持っているのは歴史的にみる西欧勢の東方地域侵略の熱意で、これはこれで気持ちが悪いほどしつこくてそれが故に見る方としては面白いものもある。でもって、ここの勝負がいわゆる近代の歴史の陰の部分だと思う。ユダヤ人とドイツ人が結託してロシアで暴動を起こしたのが、つまるところ「ロシア革命」などと呼ばれ、それによってあたかも労働者、大衆が暴虐の政府を倒すなどというロマンチックな嘘が教科書にまであふれるようになった。
この嘘は冷戦の崩壊と共に、つまり当事者ロシアがいわゆる西側の言論空間に入ることによって次第に崩れて来た。第一次世界大戦についての新しい知見を伴った本などが出ているのはそのせいでしょう。気づきつつあった人々にとって今回のウクライナ問題は、あたかも100年前の出来事のミニ再現フィルムを見るようで非常に為になったと私は思う。
■ IMF改革は結局とん挫
それはそれとして、もっと差し迫った問題は、例えばIMFの機構改革に見られるような、新興国、とりわけ中国の胎動に対して先進国側、とりわけアメリカがどう対処するのか、という問題でしょう。
でもって、IMF改革は拒否権を持つアメリカが結局改革を承認しないままになっちゃった。
IMF出資改革:「最後の機会」米予算に条項盛り込まれず
毎日新聞 - 2014年12月13日
http://mainichi.jp/select/news/20141214k0000m020181000c.html
改革は経済成長した新興国の意見をIMF運営に反映させることを目的に、日米欧各国の出資比率を減らし、新興国への配分を増やす内容。2010年に合意され、発効には出資比率で合計85%の国の批准が必要だが、17.67%を握る米国が批准せず、実現してこなかった。
December 12, 2014 8:39 pm
Christine Lagarde warns US over IMF reform failings
これはある程度予想通り。ということは、IMFはこのまま適当に小規模にいじるかして(米議会の承認を不要とする程度)、別の取り組みを考えていこうという動きが強まるのは必至だった。
今年話題となったいわゆるBRICS銀行やアジア開発銀行の向こうをはったアジア・インフラ銀行なんてものはみんなこの流れにある話ですよね。
この上にウクライナ危機を発端とするロシア叩きがある、と考えると、なぜトルコ、イラン、インド、中国、南米各国、南アフリカが陰に陽にロシアを支援していたのかの意味も違ったものに見える。怖いぐらい。
でね、この並びはつまり、過去200年間ぐらいで見るなら国際的な金融資本の跋扈によって金融的に支配を受け経済や民族共同体をぶち壊された経験を有するある種の被害者同盟みたいな感じになってるんだよね。好むと好まざるとにかかわらず・・・。でもって、このチームなんかは続いてる系統だけど(グレートゲーム v.2.2: プーチンのインド訪問)、それ以外の国も単体にならないよう(単体になると潰されるから)集団化してきてるところが西側的には実に実に厄介。
■ 中央銀行問題
で、思うに、この仕上げ的なものが中央銀行の問題なんじゃないかなぁと私は思ってるわけです。
つまり、ぶっちゃけ現状のシステムというのは各国の中央銀行が独立という名の下に国家から飛び出た格好になって、当該国家の言うことを聞かないどころか、逆に当該国家にとって必ずしも良くないかもしれないことを「させられる」こともある仕組みだと言っていいんだと思うわけ。
だから平等でも自由でもない仕組みがここにあって、これが故に各先進国の序列や先進国とエマージング間の暗黙の溝といったものが、私たちの目に触れないところで決定付けられてるんだと私は疑ってます。
で、であれば、その仕組みから出たいと思う人々が出て来るのもやむを得ないでしょう。しかし、そうはさせじと、反抗者には問題の種を植え付けて、それを理由として制裁したり爆撃したり、体制変更をさせるといった強硬手段もオプションとして存在していたし、今もいる。
自由でも平等でも民主的でもなく、かつ、実に暴力的、強権的なのがいわゆる「戦後秩序」なんだけど、これがどこまで持つのか、というのが試されている時代が今なんだと思う。
でもって、これに対していわゆる西側というところはこれをどうも宗教的統制による団結で押し切ろうとしているように見える。
■ 西側という宗教
2か月ぐらい前、ああ、つまり西側(the West)というのは、宗教的統制なんだなと思って、こんな記事を書いた。
西側という宗教
自由と民主主義に目覚めたから西側教徒になるのではない、西側教徒だから、自由と民主主義、法の支配、自由・市場経済 etcの「普遍的価値」を褒め称えるのだ、というスタイルで信徒と信徒以外を分けていくその姿勢に、ものすごい違和感を感じたわけです。
各国の首脳が、なんら具体的でないケースで、抽象概念として民主主義、法の支配、人権、国際法、民主主義だのとペラペラと言葉の端に付ける姿が非常に奇妙だった。
ここらへんが、「我精霊を信ず」の代わりに「我民主主義を信ず」とかになっちゃってる感じがしてそこはかとなく物悲しいんだけど、でも、これはつまり、ある種の政治家とか官僚というのはつまるところ祭祀階級と考えればいいのかな、と。
教徒であることを確認するための文言をちりばめて物語を整えていって、それ以外は異端として設定してしまう。メディアは祭祀階級の異端審問官のようなもの。政治家やエスタブリッシュメントは貴族・門閥階級で、ここが資本を出し祭祀階級の働きによって利益が得られる。庶民は祭祀階級による教えを鵜呑みにして平凡に暮らしましょう、という体制。
祭祀階級は国境の区別なく同じ階級同士で交わるため国境を超えた信ずべき利益を語ることに違和感がないので、彼らによって支配された言語空間には当然ながら国境はない。おそらく地理概念も時間概念も乏しい。普遍的価値に奉仕しているつもりだから。
と、ぶっちゃけテオクラシー(神権政治)的なわけだけど、実際確かに主要国がテオクラシー的になっているような気はする。議会が非常に形骸化していて、実のある議論がない、あたかも正しいことはこれしかなく、向かうべき先はこれしかない、「この道しかない」といった具合に物事が決まっていく。
気持ち悪い社会になってると思う。西側的宗教体制に未来はあるのか?
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