遠野市立博物館。遠野市東舘町。
2023年6月11日(日)。
遠野まちなかドキ・土器館を見学後、鍋倉山の麓にある遠野市立博物館を見学した。伊能嘉矩(いのうかのり)は、5年ほど前の台湾旅行で知ったが、その業績は現地でも高く評価されていた。
おしら様(オシラ様、オシラサマ)は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。
神体は、多くは桑の木で作った30㎝程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。貫頭衣のかたちをしたものと布を頭部からかぶせた包頭型とがある。普段は住宅の神棚や床の間に祀られていることが多い。神体は、男と女、馬と娘、馬と男など2体1対で祀られることが多い。
伊能嘉矩(いのうかのり、1867~1925年)は、人類学者・民俗学者。明治時代においていち早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者といわれる。
慶応3年(1867)南部藩支藩である遠野南部家の下級武士の子として遠野に生まれた。父母を早くに亡くしたが、両祖父から漢学・国学・国史などを学び、若くして学才を発揮する。明治18年(1885年)、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動にも参加し、岩手県に戻り入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。1889年3月、再び上京。成達書院で漢学と歴史を学びながら、東京毎日新聞社に入社、教育評論、教育報知、大日本教育新聞の記者を務めた。
明治26年(1893)東京帝国大学の坪井正五郎から人類学を学び、鳥居龍蔵と出会った。「土俗学」の独立を提唱したが、この学問は後に「民俗学」として柳田国男(やなぎたくにお、1875~1962年)に引き継がれ、集大成されていった。
明治28(1895)年、陸軍省雇員として台湾に渡り、台湾土語講習所でアタイヤル系土語などを学び、台湾人類学会を設立して研究活動を始めた。台湾総督府雇員として台湾全土にわたる人類学調査に取り掛かった。その調査結果は、『台湾蕃人事情』として台湾総督府民政部文書課から刊行された。
1906年(明治39年)帰国後は、台湾研究を進めるかたわら、郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになる。研究を通じて柳田國男や佐々木喜善、ネフスキーなどの民俗学者と交流し、『遠野物語』の成立にも影響を与えたこの間の著作に『上閉伊郡志』『岩手県史』『遠野夜話』などがある。研究を通じて柳田國男と交流を持つようになった。郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の『遠野物語』成立に影響を与えた。大正14年(1925年)9月台湾滞在中に感染したマラリアが再発して病死した。
死後、柳田は伊能の残した台湾研究の遺稿の出版に力を注ぎ、昭和3年(1928年)『台湾文化志』として刊行された。台湾研究の大著『台湾文化志』は、現在も国際的に高い評価を受けている。
佐々木喜善(きぜん、1886~1933年)は、民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。
遠野市土淵の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、二年後に中退する。
その後、上京、哲学館(現在の東洋大学)に入学するが、文学を志し早稲田大学文学科に転じる。この間、佐々木は終生の友人となる水野葉舟と出会う。1905年(明治38年)頃、佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を発表し始める。
1908年(明治41年)11月4日、佐々木は水野の紹介によって柳田國男に知己を得、牛込加賀町の官舎を尋ねる。その後、やりとりが始まり、この時、喜善の語った遠野郷の民話や伝説を基に、柳田が『遠野物語』を著す。
1910年(明治43年)に病気で大学を休学し、郷里に帰る。柳田の影響や要請もあり、次第に郷里である遠野の民話や伝説収集に文筆活動の主軸を移してゆく。この間に『遠野物語』にも登場する辷石たにえから聞いた昔話をまとめた『老媼夜譚』や『遠野雑記』『奥州のザシキワラシ』『江刺昔話』『東奥異聞』『聴耳草紙』などの民話集を発表した。
民話収集の傍ら、土淵村村会議員・村長を務めるが、村長職という慣れない重責に対しての心労が重なり職を辞す。同時に多額の負債を負った喜善は仙台に移住。以後生来の病弱に加え生活は困窮し、数え年48歳で病没。「日本のグリム」の名は、喜善病没の報を聞いた言語学者の金田一京助によるもの。
詩人・童話作家の宮沢賢治とも交友があった。1928年(昭和3年)、賢治の童話『ざしき童子のはなし』の内容を自著に紹介するために手紙を送ったことがそのきっかけである。その後、1932年(昭和7年)になって喜善は賢治の実家を訪れて数回面談した。賢治は当時既に病床に伏していたが、病を押して積極的に喜善と会っていた。
このあと、オシラ堂のある土淵の伝承園とカッパ淵へ向かった。