続日本100名城・国史跡・鮫ヶ尾(さめがお)城跡。新潟県妙高市宮内。
2023年10月3日(火)。
鮫ヶ尾城跡は、新潟県の南部、西頸城山地の一角を占める低丘陵に築城され、信越の国境地帯を望む交通の要衝に位置する上杉氏の越後を代表する戦国期の山城である。上杉氏の北国街道の防衛を兼ねた街道整備の一環として、特に約10km北に位置する上杉氏の本拠地の春日山城直近の要害としての役割を担った。
鮫ヶ尾城選地の条件として、この丘陵部が斐太遺跡や古墳群、斐太神社が立地する古くからの鎮守の森であり、山麓で暮らす人々の信仰が深く根付いていたことが、最後に神仏を頼って立てこもる山城として重要な要素となったと考えられる。
鮫ヶ尾城の築城時期に関する明確な記録はないが、信濃も支配した甲斐武田氏による信越国境への侵攻が脅威となり、春日山城等の改修や増築が盛んに行われた天文・永禄・元亀年間(1532~1572)頃に春日山城の守りを固めるべく築かれたと考える説が有力である。
上杉謙信没後に起こった天正6〜7(1578~79)年の御館の乱(おたてのらん)とよばれる上杉家家督相続争いの決戦の舞台として、上杉景勝が上杉景虎を追い詰め、景虎が自害して勝敗が決した城となった。乱後は武田氏・織田氏・北条氏などの隣国大名の勢力図が大きく塗り替えられた。歴代の城主は不明だが、御館の乱の際には上杉謙信の家臣堀江宗親であった。
鮫ヶ尾城に関する天正7年(1579)の史料に「さめかを」「鮫尾」と見える。天正7年3月19日付けや同年同月24日付けの上杉景勝書状では、当時の城将(城主または城代)が堀江宗親であったこと、御館の乱の際に敗走してきた景虎がわずかな手勢で鮫ヶ尾城に立て籠もったこと、堀江氏が景勝から寝返るように催促されていたこと、景虎が最後に自害したこと等が記されている。この堀江宗親は謙信の旗本とみられ、天正6年5月以降、景虎方として御館周辺の攻防に主力として参加していた。
御館の乱。
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信は病死した。その結果、上杉景虎は義兄弟の上杉景勝と家督を巡って対立することとなった。上杉景虎は実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は上杉景虎が優勢であった。これに対し、上杉景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。
5月上杉景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある「御館」(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は甲相同盟に基づいて武田勝頼に上杉景虎への援軍を打診し、武田勝頼は同年5月に信越国境まで武田軍を出兵させた。
6月上杉景勝方は武田勝頼に和睦を提案し、8月、上杉景虎と上杉景勝は一時的に和睦が成立したが、同月三河の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、武田勝頼は越後から武田軍を撤兵し上杉景虎と上杉景勝両者の間でも再び戦いが始まった。
一方で北条氏は北条氏照・氏邦らが三国峠を越えて越後に侵入し、荒戸城を落とし、さらに上杉景勝の拠点であった坂戸城の至近である樺沢城をも落としてこれを本陣とした。しかし樺沢城の北条軍は、樺戸城に氏邦勢と北条高広・北条景広らを残して、関東に一旦撤兵した。上杉景勝はこの機を逃さず攻勢を強めた。
天正7年(1579年)、まだ三国峠の雪が解けぬ前に御館は落城した。景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害した。通説では24歳とされる。嫡男の道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども殺害された。
孤立無援となった上杉景虎は、実家の北条氏を頼って小田原城に逃れようとした。鮫ヶ尾城主堀江宗親は上杉景虎側につき、御館落城後に関東への唯一の逃げ道となったこの城を経由して逃がすべく、景虎を城に引き入れた。しかし宗親は景勝方安田顕元の工作に応じて寝返り、二の丸に火を放って逃げ去った。3月24日総攻撃を受けた鮫ヶ尾城は落城、景虎は自刃して果てた。享年26歳とされる。
鮫ヶ尾城跡は、谷筋までの自然地形を含む範囲が約25万㎡に及び、その主な遺構は丘陵の主稜線上に並ぶ6箇所の大曲輪、6条の長大な堀切、100箇所を越える切岸などであり、遺構の残存状況は極めて良好である。これまでの発掘調査において、広範な範囲で被熱した16世紀後半を主体とする遺物がまとまって出土している。
鮫ヶ尾城の正面口は山頂から見て南側に延びる尾根筋にあり、城将の館があった麓から左右に屈折しながら進む登城道や敵兵を迎え討つための武者溜り、土塁・切岸を組み合わせた出入口などが連続して設けられ、自然地形を残さないほど徹底的に加工されている。山頂部は眺望に優れ、遠く日本海から信越国境を隔てる関田山脈までを望見することができる。
北遺構群。山頂部周辺を大規模に加工した山城の中心地区。尾根筋に広い曲輪が並べられ、その周囲を比高差の大きい堀切や切岸で取り囲んでいる。
南遺構群。山頂から南に延びる尾根を加工した地区。北遺構群と一体性や連続性があり、その接続部に明確な虎口が存在する。曲輪や切岸が、尾根の先端部まで自然地形をほとんど残すことなく造作されている。
東遺構群。山頂から東に長く延びる尾根を加工した地区。尾根が細く、尾根筋を断ち切る堀切はたくさんあるが、広い曲輪はほとんど造られていない。山城の遺構は尾根の中腹で途切れ、尾根の先端部までは到達していない。
ふもとから山頂曲輪(通称本丸跡)に至る登城道(遊歩道)には、山頂につながる尾根筋を行くかつての大手道「南登城道」、山城の北斜面を行く「北登城道」、「東登城道」の3コースがある。
南登城道の登城口は斐太歴史の里から離れているので、上りは「東登城道」下りは「北登城道」がノーマルな選択であろう。
東登城道は、緩やかな勾配で長く延びる東側の尾根を行く登城道。尾根筋に往来の妨げとなる堀切が多く造られているため、現在は尾根の南側斜面を開削してできた里道が登城道になっている。
北登城道は、深い沢を超えて山頂尾根の北側斜面を行く登城道。途中までは杉林が広がり、山頂部の真下まで近づくと切岸が現れる。公図上の赤道であり、擬木階段を用いた登城道が整備されている。
南登城道は、山川が形成した谷部から南側の尾根を行く登城道。急勾配の尾根筋を中心に、左右に折れながら進む通路状の遺構(当時の道方)が良好に残っている。現在はこの通称道曲輪の脇に造られた里道が登城道として使われている。
斐太歴史の里総合案内所の職員からコース概要を聞いたのち、上りは「東登城道」下りは「北登城道」を予定して、14時50分頃に出発し、時計回りに宮内池(淡水魚の池)、斐太遺跡(矢代山B地区)、東登城道、鮫ヶ尾城本丸跡、北登城道を周遊して、15時45分頃に案内所に帰った。
東登城道は山の尾根に沿って行く道で、弥生時代の集落遺跡である「斐太遺跡 矢代山B地区」を経由して登る途中には「堀切」が多く見られる。
大堀切5。
東一の丸。
堀切6。
本丸下。
鮫ヶ尾城跡・通称本丸跡(山頂部)。
本曲輪は鮫ヶ尾城跡の最高所にあり、その標高は約185ⅿを測る。築城されたときの名称は分からないが、山頂部の最も眺望が優れた場所に位置することから、江戸時代から「本丸」と呼ばれてきた。
北に日本海、南に信越国境を望む景観からは、鮫ヶ尾城が高田平野の入口を固める軍事的に重要な場所であったことが分かる。この通称本丸跡からは、上杉方の拠点城郭であった春日山城がよく見通せる。
北方向。通称米蔵跡。日本海。春日山城。
米蔵跡は、古くから焼け米を採集することができる場所として有名な曲輪で、焼け米の存在は江戸時代には広く知られていた。
東方向。平野部と米山方面。
南西の妙高山方向。
鮫ヶ尾城跡見学後、近くにある妙高市の道の駅「あらい」へ向かった。