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盛岡市 安倍館稲荷神社・厨川柵推定地・安倍館・厨川城跡

2023年11月14日 11時47分53秒 | 岩手県

安倍館稲荷神社。(厨川柵推定地・安倍館・厨川城跡)。盛岡市安倍館町。

2023年6月9日(金)。

盛岡城跡を見学後、厨川柵(くりやがわのさく)推定地へ向かった。山川出版社の歴史散歩の記述では厨川八幡宮、天昌寺が紹介されていたので、厨川八幡宮へ向かった。厨川八幡宮は車道から東側へ狭い道を入った場所にあり進入しづらかった。南隣の進入路を入ると、厨川八幡宮ではなく、安倍館稲荷神社があり、安倍館公民館の横に駐車した。

東は断崖が続き、区画ごとに濠があり、なるほど厨川柵の跡かと錯覚させられた。

結局、この地は戦国時代の工藤氏の厨川(栗谷川)城跡であり、嫗戸柵(うばとのさく)の推定地であった。

嫗戸柵は、安倍氏の勢力範囲最北の古代城柵であり、厨川柵と共に一連の柵を形成したと考えられる。前九年の役の1062年(康平5年)に厨川柵と共に陥落した。

厨川(栗谷川)城。

文治5年(1189年)、源頼朝は奥州藤原氏を討ち、奥州を平定した。頼朝は父祖による安倍氏追討以来の先例にならい、厨川を訪れ、戦功のあった工藤行光を岩手郡地頭に任じ岩手郡の33郷を与えたとされる。

厨川工藤氏(のち栗谷川氏)は厨川の里館(さたて)遺跡と推定される地に厨川館を築いて拠点とし、岩手郡を統治して「岩手殿」と呼ばれた。14世紀の南北朝争乱の際は北朝方につき、近郊10ヵ村を領知するに至った。次第に厨川(栗谷川)氏の領地は厨川周辺のみとなり、16世紀には現在の安倍館町に厨川城を築いたが、最終的には南部家の家臣に組み込まれていき、天正20年(1592年)の『諸城破却令』により廃城となった。

現在、安倍館遺跡に見られる濠跡は、この「厨川(栗谷川)城」の遺構と考えられている。北東側は北上川に面した切り立った崖となっており、自然の外堀となっている。現在も往時の曲輪平坦面と、それらを隔てる堀切跡が残されている

南館 東西91m×南北51m。中館 東西95m×南北47m。本丸 東西115m×南北87m。北館 東西118m×南北20m。外館 東西111m×南北75m。

 

厨川柵永承6年(1051年)から康平5年(1062年)にかけての前九年の役で滅亡した安倍氏一族最後の拠点で、安倍氏の勢力圏では最北端にあたり、南の衣川柵とともに安倍氏の二大拠点であった。

11世紀、鎮守府胆沢城の在庁官人であった安倍頼時(あべのよりとき)は俘囚(在地エミシ系勢力)の長となり、奥六郡(おくろくぐん、岩手県中北部)の統率者となった。安倍頼時は、本拠地鳥海柵(とのみのさく)〔金ヶ崎町〕をはじめ各地に柵を築き、「厨川次郎」を名乗って総大将となった安倍頼時の次男・安倍貞任(あべのさだとう)は最北の厨川柵を拠点とした。

厨川柵は、前九年の役において、源頼義ら朝廷軍との最終決戦場となり、康平5年9月、源氏・清原氏の連合軍に包囲されて激戦の末に落城、貞任や重任(しげとう)は捕らえられ処刑、宗任(むねとう)、家任(いえとう)、則任(のりとう)らは降伏、頼時の娘婿の藤原経清(清衡(きよひら)の父)はわざと切れない刀で首を打たれ苦しみながら亡くなり、安倍一族は滅亡した。『陸奥話記』には「城中男女数千人」とあり、かなり大きな城であったことがうかがえる。

安倍氏一族が厨川柵に滅ぶと、出羽の山本三郡(やまもとさんぐん)を拠点としていた清原氏が北東北一帯を支配するようになる。清原氏が後三年の役(1083~87年)で滅んだのちは、北東北は安倍氏の血を引く奥州藤原氏の支配下となり、岩手郡は奥州藤原氏の一族「樋爪氏」が所管したと考えられている。

「盛岡市遺跡の学び館解説シート。厨川柵・嫗戸柵(うばとのさく)と厨川の遺跡」を読むと、厨川柵は、西側台地の大館町・大新町・小屋塚一帯であろうとされるが、明確な場所は特定されていない。

大館町遺跡では12世紀の溝安倍氏時代にあたる11~12世紀の土器が出土。大新町遺跡では11世紀の掘立柱建物跡、木柵跡、土坑などがある。小屋塚遺跡では竪穴建物跡から土師器高台付坏が出土している。前九年1丁目の宿田遺跡、上堂4丁目の上堂頭遺跡などから10世紀末-11世紀中頃の土師器などの遺物や、竪穴建物や掘立柱建物などの遺構が検出されている。また西青山1丁目の赤袰遺跡では、同時期の鍛冶遺構や土師器生産遺構などが見つかっていることから、上記諸遺跡の分布範囲内に厨川柵・嫗戸柵が存在したことはほぼ確実であろうとされている。

この台地一帯の南側は鹿角街道が通じ、雫石川や秋田街道を俯瞰する交通の要衝であった。一方、安倍館・厨川城跡周辺は嫗戸柵(うばとのさく)があった地域とみられ、北上川の崖に沿った台地である。

 

このあと、宮沢賢治の母校である旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)へ向かった。

盛岡市 日本百名城・国史跡・盛岡城跡



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