その謎を語るには、私の通勤経路から話さなければなりません。毎週の火曜と木曜の週2回通勤する荒川5中への経路は、自宅から西日暮里まで歩き、ここから日暮里・舎人ライナーで熊野前へ。そこで都電荒川線に乗り換え荒川7丁目下車、徒歩で京成線沿いに5中までの、往復です。自宅・西日暮里間を往復徒歩にすると、一日の歩数が12,000歩を超えることと、このルートの交通費タダがこの経路を採る理由です。 このルートを採り出してすぐ、舎人ライナー西日暮里駅手前で「藍染川西通り」と書かれた看板を見ました。更には勤務校脇の、京成電鉄と並行して走る道路上に「藍染川通り」(右写真)の看板も発見。最初は不思議に感じているだけでしたが、毎週この看板を見ているうちにこれは「絶対にオカシイ」と思い始めました。(写真:隅田川近くにある看板。背景は京成電鉄)
豊島区にある青果市場と染井霊園付近からの湧水を源流の一つとする谷田川は、霜降を通り、駒込を経て、谷中に至り、名を藍染川と変えて、今にその名を残す”へび道”のように蛇行して、不忍池へと注いでいました。ポイントは谷中を通る事に象徴される様に、東京の東端にある上野台地と本郷台地の谷合いを流れていた事です。今は全て暗渠になっていますが・・・。
その流れが、上野台地を越えて、その東に位置する荒川区を流れるはずがない。そうであるのに「藍染川通り」・「藍染川西通り」とのネイミングは妙だと思ったのです。それに何か謂れがあれば、それは私にとっての謎。
まずはネットで調べてみました。以下ネット情報を集約したものですが・・・。 そこで分かった事は、分流をしていたのです。谷田川(藍染川)は氾濫を起こしやすく、それを防ぐために、夜店通り入口付近で分水し、右の流れは谷中方面へ。左の流れはトンネルで山手線の下を潜り(とりも直さず、上野台地を貫通し)、西日暮里以東は主とし”表に顔を出し”京成電鉄に沿って隅田川にまで流れていたのでした。分水地点から直ぐに限っては、下流は暗渠というより、トンネル。当初から暗闇を流れていたのでした。谷田川の分流水のうち、谷中方面への流れが藍染川である事に因んで、荒川区側の暗渠化された川を基に出来た通りは、その名も粋な「藍染」の名を付けたのではと私は推理しています。(写真:藍染川西通りの出発点。背景の高架は日暮里・舎人ライナー)
10月25日(木)は、実際に、藍染川通りを歩いて通勤し、その実態の一端に触れる予定です。そのことは次々回のブログに。