毎年恒例の、”夏休みラジオ体操”が、7月22日(月)~27日(土)の6日間にわたり、富士神社で行われている。私は22日は蓼科にいて参加出来なかったが、23日から一緒に体操。例年よりも多い参加者で、特に小学生以下の参加者が多数見受けら、神社境内が狭く感じられる。
6月30日~7月2日の”山びらき”の縁日にも、特に高校生や中学生の浴衣姿が多数見受けられ、多くの方が、その現象に驚き、口に上らせていた。私も焼鳥と生ビールで、夏の風物詩を微かに味わった。
しかし、この地に長らく住んでいる人の話によると、縁日はこんなものでは無かったらしい。テントが張られ”世にも珍しい蛇女”のショーが演じられ、球形の器の中をオートバイが疾走したこともあったとか。1983年(昭和58年)にこの地に引越して来た時でも、本郷通り沿いに、植木市が立ち、多数の植木商が店を並べていた。 しかし更に時を遡った江戸時代、その賑わいは現代を遥に凌いでいたことが、書物などで窺える。
『江戸名所図会』下巻(角川書店版 p138)の「富士浅間神社」の項には、次の様にある。
『・・・当社昔は本郷加州候の後園にありしが、寛永年中今の地に遷さる。毎歳の六月朔日祭礼にて、前夜より詣人多く道路を充てり。この地の産物として麦藁細工の蛇、ならびに団扇、五色網などを鬻ぐ』と。
寛永六年、現在は東大脇にその痕跡を残す「富士浅間神社」は、名を「富士神社」と改め、ここ駒込の地に遷された。それ以前からあった、高さ15メートルの小高い丘(古墳)の上に立つ、とも解説されている。私の実測の3倍もあったとある点が、腑に落ちないが・・・。
又、江戸時代に盛んだった”富士講”。
『山信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧5月末になると富士講の人々は、6月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た』(ウイキペディア)とある。駒込富士神社の富士講はその魁をなすとも言い伝えられている。江戸川柳に「一富士 二鷹 三茄」と詠まれた”富士”は、江戸の、数多くあった富士神社のうち、ここ駒込の富士神社を指している所以である。
富士神社のすぐ傍を通る本郷通りは、かって岩槻街道と呼ばれ、別名御成り街道。江戸から日光東照宮へ向かう将軍一行が通った道。祭礼に詣でる人だけでなく、多くの人の往来で賑わったことだろう。昔を今に為すよしもがな。