10月16日(日)~18日(火)に掛けて、我が友人Tさんと妹夫妻と私の4名で、サントリー白州蒸留所→我が山荘→蓼科山→妹夫妻別荘と巡って来ました。
4人を結ぶ関係は、私と妹がその中心に位置しますが、それだけでは語りきれない人間模様で、実は4名は都立小山台高校定時制での同窓メンバー。学び舎を通して知り合った妹夫婦の1年先輩がTさんと私。そのTさんは私の紹介で、同じアパートの隣室に引越してきて、4人で共通の時を過ごしたこともありました。”苦学を共にした仲”との思いが4人に共通して流れます。
今回の旅行計画の大筋は私が立てましたが、基本形は我が山荘と妹夫妻の別荘を繋いで、途中蓼科山に登る計画です。初日は代官町インタから中央道高速に入り、小淵沢下車。サントリー白州蒸留所を目指しました。8月に訪れているのに再度の工場訪問です。本当は1000円で「シングルモルト楽しみ講座」に参加したかったのですが、8月には参加への予約受付が無く、断念したのですが、今回の旅行では、山荘へ行く前に寄る事が可能でしたから、事前に電話予約しておきました。
この講座、まずは工場見学があります。それが終了すると、とある部屋へと導かれます。そこには既に数種類のシングルモルトが用意されていて、それらを前にいよいよ講座の開始です。第一部は「テイスティング」です。白州12年・山崎12年・マッカラン(スコットランド)12年・ボウモア(アイラ島)12年の4種類のシングルモルトの各々を、色を見て→グラスを軽く回し→香りをかいでみて→加水して→口に含んで味わいます。
第2部は「おいしいハイボールのつくりかた」です。私は、ハイボールは自己流で作っていますから、一体どんな作り方が紹介されるのか興味がありました。工場を案内してくれたお姉様がこちらも担当で、それによれば①グラスにたっぷりと氷を入れ ②ウイスキーを適量注いでしかりかきまぜ、減った氷を足し ③冷えたソーダを氷に触れないようにゆっくり加え ④マドラー(攪拌棒)でタテに1回混ぜて完成 との説明の通りにやって見ました。
確かに普段飲んでるよりはるかに美味しいハイボールです。原酒が美味しいのか、加えるソーダが良いのか、それとも作り方でベストなのかはよく分かりませんが、この方法でやってみようと言う気になりました。
帰りには白州12年シングルモルトミニチュアボトルのお土産が付き、これで1000円は非常に得した気分になります。さて問題は誰が車を運転するかです。白州工場までは義弟が運転して呉れました。男3人は試飲しています。実は遊びにも熱心な妹は運転免許を持っていて、ここから買い物をして我が山小屋までは、事前に頼んでおいた妹が運転をしてくれました。妹は定年退職直後に自動車教習所に通いだし、60歳にしての運転免許取得。こんな時にもそれが活きました。感謝!感謝!です。
2度目の水晶小屋へは、山仲間WさんとO夫人と私の3人。折立から太郎平小屋に至り、黒部五郎岳・水晶岳・三俣蓮華岳・双六岳と尾根稜線を辿り、奥飛騨温泉郷方面に下山しました。
3度目は、山仲間のK夫妻・Sさんと私の4人で折立から入山するも、K夫人の足の痛みからK夫妻が下山。結局Sさんと二人で、太郎平小屋・黒部五郎岳・水晶岳・三俣蓮華岳・双六岳・笠ヶ岳を経て、やはり奥飛騨温泉郷方面へと下山しました。その時が何時であったかはっきり思い出せないのですが、多分2004年だったかと。
その日は快晴でした。水晶小屋にザックを置いて水晶岳をピストン(行ってその道を帰ってくる登山スタイル)しました。下山途中、赤いネッカチーフの軽やかな足取りの女性とすれ違いました。私たちが水晶小屋に戻り昼食を摂っていると、暫くして、件の赤いネッカチーフの女性も下山して来て、私達の傍らまでやってきて「あの時の方ではありませんか」と私に語りかけてきたのです。すれ違った時には全く気が付きませんでしたが、間近かで良く見ると、かって太郎平小屋から黒部五郎小舎までご一緒したことのあるMさんでした。
こちらの年はよく覚えています。定年退職を間近に控えた2000年7月、私は久し振りの一人登山で、太郎平小屋・黒部五郎岳・水晶岳・三俣蓮華岳・双六岳・樅沢岳を経て、西鎌尾根経由で槍ヶ岳に至り、上高地へと下山したのでした。その途中、太郎平小屋から黒部五郎へ辿る日は雨模様で霧深く、更には残雪が豊富に残っていました。特に残雪多い時は道に迷い易いのです。謂わば危険度の高い日でした。Mさんも私も一人旅。どちらからともなく「ご一緒しませんか」と。と言う訳で、黒部五郎岳まで、途中からもうお一人も加わり、なんとなくグループが形成されて、黒部五郎小舎に到着したのでした。
道すがらの会話から、私とご同業で、主として高山植物のツマトリソウを写真に撮ることが趣味で、今回は何時も山へ同行する友人の家族にご不幸があり、一人旅との事。百名山は90座ほど登ったとも語っていました。
翌朝、Mさんは私よりも早く黒部五郎小舎を出発して行きました。遅れて出発した私は、約1時間のアルバイトで黒部五郎岳が良く見えるはずの地点に到達し、霧が晴れるのを待っていました。この日雨はあがっていましたが、まだ霧が残り、黒部五郎岳は姿を見せてくれません。ここから、この山のカールを是非とも写真撮影したかったのです。2時間は粘りました。徐々に霧は晴れて行き、遂にその全容を見せてくれ、夢中でシャッターを押しました。山に登って感激した出来ごと事の一つです。
その写真を彼女に郵送し、彼女からはツマトリソウの写真が送られて来て、2回ほど文の交換がありましたが、音信不通で数年が流れていました。
そんなMさんとの突然の、奇跡的な再会です。前回と同じく雲ノ平を望む山での再会。確率としては非常に小さい事が起こった事に感激して、地上でもお会いしませんかとの手紙を出しました。NOとの返事が来てから、6年ほどの歳月が流れた昨年、「百名山完成間近」のハガキが舞い込み、秋には目出度く百名山完成の知らせが来て、ささやかなお祝いをさせて頂きました。
水晶小屋で過ごした時間はほんの僅かです。この小屋の記事を読み、次回は宿泊したくなっています。自分の体力を考えると自信はありませんが・・・。
朝日新聞夕刊1面掲載の人・脈・記の”山を思う”最終回は北アルプス最奥に位置する水晶小屋と、そこの管理人伊藤夫妻を取り上げていました。記事を読み、ここを3度ほど訪れたことのある私に、その時の印象深い思い出が甦りました。
水晶岳(別名:黒岳 標高2986m)は百名山の一つにして、黒部川源流の山の中での最高峰。雲の平を見下ろす地点に位置します。その直下に水晶小屋はあります。
最初の思い出は20数年前に遡ります。当時の、向丘高校の山仲間4人と、初日は北アルプス3大急登の一つ「ブナ立尾根」を息を切らせながら登り、烏帽子小屋に至り、野口五郎小屋付近にテントを張りました。二日目はここから三俣山荘を目指しました。この日は風雨が非常に強く、尾根沿いの登山路では、風を遮るものが乏しく、強風に苦しめられました。レインウエアでしっかり身を包んでも、かなりの雨にやられ、漸くの思いで辿り着いた水晶小屋。ここで水を買い求めようとしたのですが、稜線上のこの小屋に水は乏しく、販売している水はありません。小屋付近の雪渓の下から流れ出す水場を教えて貰い、冷たい雨をついで水の確保に向いました。
この小屋は尾根道にあります。風雨強かるべしなのです。後にこの小屋は過去に2回、台風で建物ごと吹き飛ばされた事を知ります。そして2007年4月、衝撃的なニースが飛び込んできました。改築予定の水晶小屋の下見を終えてヘリで下山する際、ヘリコプターが小屋付近の雪原に墜落したとの報道です。この事故で機長ら2名が死亡し、管理人伊藤圭は重傷を負ったとも。原因は強風の為と報じられました。この近辺ではしばしば、自然の猛威が荒れ狂うのです。私たちが水を汲んだ、小屋下にあるあの雪渓だなと思いました。
その後小屋は無事改築され、管理人も今は元気に働いているようです。私達は厳しい環境の一端に触れたに過ぎないのですが、過酷過ぎる条件の下、現在も営業を続ける小屋を思います。
ただ3度目の水晶小屋では奇跡的な再会がありました。こちらは次回のブログで。
ベラ・チャスラフスカさんが来日していました。1964年、東京オリンピック女子体操で個人総合優勝した、名花と謳われたあのチャスラフスカです。私は昨年の12月16日のブログ「後藤正治の仕事」で、その著作「ベラ・チャスラフスカ最も美しく」に触れ、ベラの横顔を次の様にまとめ、紹介しました。
『1960年代、自国チェコスロヴァキア(ここではチェコと書きます)の民主的改革(いわゆる”プラハの春”)を求める「二千語宣言」に署名したベラは、ワルシャワ条約機構軍のチェコ侵攻により短い春が終わった後も、署名撤回を求める党の圧力に屈せず非撤回者であり続けます。厳冬の時代の到来です。
1980年代に入りベルリンの壁が倒され、東欧社会主義体制も次々に崩壊。チェコでは「ビロード革命」が成就。大統領制のもとで、ベラは「大統領顧問」になり、チェコオリンピック委員会委員長にも就任します。だが、栄光に満ちた日々も数年後暗転します。ベラの息子がベラの元夫を殺害したとのニュースが伝えられます。その心労により彼女は精神に変調を来たしたとも。』
その後、特にベラの様子を調べたこともありませんでした。もうとっくに退院し元気を取り戻していたのでした。10月6日の朝刊には次の様な記事が載りました。
『日本刀を贈ってくれたオオツカさん、どこに――。1964年の東京五輪・女子体操で金メダルを獲得したチェコのベラ・チャスラフスカさん(69)が、東日本大震災の復興支援などで6日、来日する。47年前に「日本人の魂」を手渡してくれた男性にお礼が言いたいと、プラハ在住の指揮者、武藤英明さん(62)を通じて消息を探している。』
五輪で個人総合優勝した後、「オオツカ・リュウゾウ」という初対面の男性から認定書のついた一振りの刀をもらい、そのオオツカさんを、音楽活動を通じて親交のある武藤さんに捜して欲しいと依頼。その結果朝日新聞等を通じての”訪ね人”となり、オオツカさんの消息が分かったと13日の夕刊記事は伝えていました。
今「ドプチェク自伝」を読んでいます。プラハの春以降の、改革派への弾圧の凄まじさを読むにつれ、署名非撤回を貫いたベラの芯の強さを思います。更なる不幸からの病も癒えて、20年振りに来日し、元気な姿を見せてくれました。とても嬉しい気分です。
”大正100年を巣鴨で遊ぶ”と題する催しが、この3連休中に、庚申塚商栄会や巣鴨地蔵通り商店街振興組合を中心として開催され、地蔵通りに出掛けて来ました。地蔵通は、旧中山道で、巣鴨から都電庚申塚駅までの約800mほどの通りの名称で、通りに面してとげぬき地蔵尊(高岩寺)があり、庶民的雰囲気のある商店がぎっしりと立ち並びます。年齢を増した女性が多数やっ来るので別名”おばあちゃんの原宿”などと呼ばれています。(写真:地蔵通り入口)
パンフレットでは次の様に書かれていました。
『100年前、激動の明治を経て
昭和への扉を開いた短くも熱い「大正時代」。
それは、ここ巣鴨中山道が担った役割のように、
新しい時代へのターミナルであった。
都電、路地、サイレント映画、食、ファッション・・・。
さあ、時をもどして、大正百年を巣鴨で遊ぼう! 地蔵通り近辺の史蹟が9個所指定され、スタンプラリーで、条件を満たす様に廻ってくると抽選が出来るように工夫されています。その史蹟地点を見ると、明治女学校跡地・大正の映画上映館・千川上水公園などが挙げられ、都電の花電車通過地点もあります。古い街並みの絵を展示する「ちはら街並み美術館」では特別展を開催しているとの事。また「大正さろん」と称する場所では”懐かしの巣鴨写真展”が開かれていて、この担当は近所の大正大学の学生さん、これは御愛嬌でしょうか。(観ませんでしたが、サイレント映画上映)
兎も角、これは是非参加しようと、家人とふたり出掛ける事に相成った訳です。
私たちは明治女学校跡地と大正さろんと千川上水公園などを廻りました。物凄い人出です。ここは4の日が縁日ですが、その時よりも多くの人が繰り出しています。大正時代の服装で街を歩く一団もいます。レトロな雰囲気の街歩きを楽しんだ最後に抽選場に辿り着き、抽選機を回すとなんとこれが3等賞。”都電の街ビール”という地ビール4本を頂いて、ハッピーな気分で帰ってきました。(写真:多分、大正大学の学生さん達)
(都電の街地ビール)
(明治女学校跡)
(巣鴨のキャラ スガモン)
(千川上水公園)