マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

出光美術館の文人画展

2011年10月10日 | 映画・美術・芝居・落語


 10月7日(金)は美術展のハシゴをしました。日比谷の画廊で「清水史郎日本画展」を観た後、同じく日比谷にある「出光美術館」に足を延ばしました。家人がここの水曜会員になっているので、同伴者1名は無料と言う恩恵に浴します。出光美術館では、9月10日(土)~10月23日(日)まで、「日本の美・発見V大雅・蕪村・玉堂と仙-笑(わらい)のこころ」展が開催されています。




 画展の構成は六章からなります。
 第一章 笑いの古典ー瓢箪ころころ、鯰くねくね
 第Ⅱ章 無邪気な咲(わら)いー大雅のおおらかさ 
 第Ⅲ章 呵呵大笑(かかたいしょう)ー幸せを招く笑いの型
 第Ⅳ章 達観した笑いー玉堂の極み
 第Ⅴ章 知的な嗤(わら)
ー蕪村の余韻
 第Ⅵ章 笑わせてちくりー仙さんの茶目っ気
 
 タイトルの4人を一同に会し、笑いの差異を鑑賞下さいとの展示と、私は見ました。冒頭に4人の笑いの違いが、次の様に表現されていました。
 池大雅(いけのたいが)  無邪気なわら)い
 与謝蕪村(よさぶそん)  知的な嗤い
 浦上玉堂(うらがみぎょくどう) 達観した笑い
 仙義梵(せんがい ぎぼん)  わせてちくり

 絵を観るよりも書かれたコメントを熟読し、笑いの差異を理解しようと努めましたが、結局、咲い・嗤い・笑いの差異はよく分かりませんでした。ただ”咲い”と言うわらいもあることと、仙だけ何故か仙さんと、さん付けで呼ばれている事を不思議に思ったのでした。
 4人とも江戸時代の、いわゆる文人画の代表的作家。文人画とは、中国では、官僚が屈折した心境を描き出した、余技としての画。官僚制度の無かった日本では、自在な水墨表現によって自由に自己を表出しました。その自由な創造力の源泉のひとつが、好奇心あふれる仲間との交遊で生じた「笑(わらい)」だったのだろうとの事。
 特に印象に残ったのは重要文化財「十二ヵ月離合山水図屏風(右隻 池大雅)」と同じく重要文化財 「山水図屏風(左隻与謝蕪村)」です。画面の大きい屏風が私の好みです。
 現在は、展示が変わるごとにこの美術館を訪れる機会に恵まれているわけですが、出光美術館の、重要文化財も含めて、作品の所蔵の多さに驚かされます。

 

 


『清水史郎 日本画展』を観る

2011年10月09日 | 映画・美術・芝居・落語

 清水史郎さんからの、個展の案内状を頂いて、10月7日(金)、家人と「ギャラリー日比谷」に出掛けて来ました。清水さんとは、1980年代に家人が板橋高校でご一緒させて頂き、1990年代には私が鷺宮高校で同僚となりました。水曜日の職員会議終了後、清水さんが主宰する、美術室での酒宴が楽しみで、毎回6人~8人のメンバーが集い、教育や職場や組合について語りあった懐かしい思い出があります。





 形式や権威に捉われない人柄で、体育祭のときに、裸足で運動場に登場する姿を見て吃驚したことがありました。職員会議でも時々、校長をどやしつけていました。生まれ故郷の信州の山々を俯瞰する広大な山岳画を描いたときに、私が多くの山に登っていたからでしょうか、かなり意見を求められた事をよく覚えています。そうです。その頃は山や花の絵をよく描いていたのですが、前回と今回頂いた案内状の絵は、何故か仏さまの画が多くなってきていました。


 今回伺って、まず仏様の絵が中心になって来た訳を聞きました。「10数年前から秩父札所を巡り出したのが切っ掛けかな」との答えを聞いて思い出しました。鷺宮高校時代に、秩父札所34ヶ所巡りの際に画いた絵を中心に据えて「秩父札所 観音霊場への誘い」(さいたま出版)という本を出版されたことがありました。そのときの経験や思いが地下水脈となって、特に最近の仏画に結実してるのかと勝手に解釈しました。(写真:曼荼羅図)






 「ただ仏画だけというのも何だから花の絵も飾ってあります」とも。その話を聞いて、2階から1階へと足を運びます。曼荼羅もあります。阿弥陀来迎図もありますが、天女が一番多く登場します。その表情の生き生きとしていること!(写真:天女舞う)









 花は梅や桜が中心です。その中でも枝垂桜図は圧巻です。嘱託の仕事も辞め、今は絵三昧の生活とお見受けしました。時折、朝から少しご酒を召しながら良い気分となって仏様を描く、それこそ極楽の日々でしょう。
(写真:枝垂桜図 20号)





 清水さんの作品を時系列に沿って古い順に並べました。

           (20数年前の風景画)



             (梅香図 30号)
   


 (阿弥陀来迎図 50号)
 


『プラハの春 上・下』(著:春江一也、集英社文庫)を読む

2011年10月08日 | 読書

 ”遅れて来た読書”です。1997年5月に発行されたこの作品、単行本を買った後”積ンドク”になっていました。7月7日のブログに書いたように写真集「侵攻 68」(著:ジョセフ クーデルカ)を観た後、「プラハの春」を読みたくなり、捜したのですが、何処を見ても見当たりません。数ヶ月前の「断捨離」で廃棄してしまったことに気が付きましたが後の祭り。断捨離とはそもそも、なんでも棄ててしまうことではなく、残して置くべきものと捨て去るべきものを峻別して、捨て去るべきものは思い切って棄てる作業。その判断基準を誤ったようです。

 已む無く図書館で借りました。この本、文庫本で上下合計930ページに亘りますが、実に面白く一気読みのスピードで読みました。著者は当時のチェコ外交官館員だった春江一也。

 物語は1967年3月から始まります。68年のワルシャワ条約機構軍のチェコ侵入の1年5ヵ月前です。プラハの日本大使館に勤務する27歳の外務館員堀江亮介は、オーストリアのウィーンで休暇を過ごした帰り道、車のバッテリがあがって立ち往生している東ドイツの女性カテリーナから助けを求められ、高熱の出た娘と二人をプラハまで車で送り届けます。ふたりの出会いの場面です。この女性、実は東ドイツのエリート共産党員でしたが、現在は反体制活動家。片や日本大使館員。お互いに惹かれあっても”禁断の愛”です。物語はこの二人が惹かれあい、触れあう過程を中心に進みます。これが横糸です。
 もう一方の縦糸では、1967年から1968年に至るチェコスロバキアの民主化闘争とその挫折が描かれます。当時のソ連、ポーランドや東ドイツとチェコとの抗争が描かれ、かのドプチェクも登場します。チェコ政権内部の保守派と改革派の闘争も詳しく語られます。
 横糸と縦糸は何重にも絡み合いながら物語は進みます。主人公カテリーナはチェコの民主化闘争を支える国営放送番組「ミレナとワイン」の語り手として人気を博しますが、それ故に身の危険が迫り来ます。
 
 この物語は当然にフィクションですが、著者本人が外交官であったという事実を考えれば、実に多くの歴史的事実が織り込まれていると思えます。
 主人公カテリーナの造詣が見事で、私は、聡明にして美しく、意志的に、”真っ当な社会主義”の有り様を求めて生きようとする姿勢に惚れました。歴史物語と恋愛小説の見事な融合です。
 民主化闘争の中心を為すのは言論の自由と検閲の廃止の要求。その実現を目指し闘ったチェコ人の想いと、挫折してしまった無念さが行間から伝わっ来ます。かってのソ連を初めとする、共産主義体制の圧政の非道さを如実に語っていますが、読み終わってこれは過去の物語ではなく、遠く中央ヨーロッパの小国の物語ではもない、現代の巨大な権力が持つ恐ろしさに通じる物語なのだと思いながら読み終えました。


燧ケ岳目指して(その2)

2011年10月07日 | 

 10月4日(火)、朝4時起床のアラームをセットするも朝2時には目が覚めてしまい、なかなか寝付けません。そこで天気の様子を見ようと外に出て空を見上げると満天の星です。今日の快晴は約束されました。ただ相当冷え込んでいるので、外の寒暖計を見ると氷点下2°。寒いはずです。
 早朝5時出発。まだ外は暗く、ヘッドランプを点しての行動開始。尾瀬沼と燧岳への分岐まではかなり傾斜度のある木道を登ります。この木道、氷点下の気温で凍っていて、登山靴でも滑るのです。已む無く歩道を外れ、笹の道を行きますが、木道に戻らねばならない個所もあり、滑るのを防ぎつつの前進で、分岐まで25分も要してしまいました。
 ”右尾瀬沼:左燧ケ岳”の分岐を過ぎると木道は無くなり、いよいよ本格的登山路。少しづつ明るくなりヘッドランプを外し、小屋から50分ほどで1本目の休憩。ここで小屋調製のお弁当で朝食。


 二本目の行動開始間もなく、木々の葉に雪が積っているのが見え始め、昨日眺めた至仏山の白いものは雪だったのかと思い至りました。二本目からは傾斜のキツイ、岩のごろごろとした山道で、雪は登山路にまで積っていて、足を捉え始めました。二本目も50分で休憩を取ります。見上げると、登山路に木々に相当の雪が積もっています。ここで私に弱気の虫が起こりました。右手にストックを握りますから、滑ると左手でカバー。一度、突いた左手がかなり痛みました。医師からは完治のお墨付きのない状態で再度の負傷は厭だなとの弱気の虫です。今回はここで”名誉ある撤退”をしようかなと口に出そうとした瞬間です、Kさんからも「ここで降りましょうかと」阿吽の呼吸でした。(写真:昨夜来の雪で滑り易い登山路)

 Kさんとは知り合って32年。向丘高校での元同僚にして山仲間のお一人。百名山中、50山以上はご一緒したでしょうか。北海道や九州の百名山では全て彼運転の
車に乗せて頂いての山行でした。彼なしでは私の百名山は未だ完成していなかったと思われるほどの山仲間。それ故この辺りの呼吸はぴったり合い、この山は既に何回も登っているからネとお互いの言い訳も伴い、今回は尾瀬ヶ原鑑賞に切り替えました。


 
下山してのんびりと尾瀬ヶ原を散策しました。絶快晴です。弥四郎小屋前の湧水が殊の外美味です。燧ケ岳も至仏山もはっきりと見渡せます。紅葉もちらほら。木道を行くボッカも長閑な雰囲気を醸し出します。山の鼻で昼食。後は1本の登りで鳩待ち峠へ。12時45分発のマイクロバスで尾瀬戸倉へ。(尾瀬ヶ原はところどころの紅葉)




   (燧ケ岳は3つのコブ山から成ります



 (見晴にある弥四郎清水。冷たくて美味しい)



       (振り返り仰ぐ燧ケ岳)


      (紅葉した落葉浮かぶ池溏)




      (至仏山:裾広がりの堂々とした山容)



(木道をゆっくり歩むボッカ。背後の山は至仏山)

 最後に「尾瀬ぶらり館」の湯に浸かりました。私たち以外には一人しか入浴していない、大変閑散とした温泉です。しかしその一人、髭で分かりました。桧枝岐小屋で同宿のヒゲジイでした。偶然の再会に吃驚し、湯につかりながら話し込むと、彼も又百名山を目指しての一人旅。現在までに60山を踏破したとの事。今回は、これから男体山と日光白根山にも登る予定とのこと。そこで初めて、私も百名山登りましたと名乗りました。その後は3人で風呂に浸かりながらの山談義です。特に北海道の山に話が弾みました。ヒゲジイの今後の健闘を祈って、何時か又と別れを告げました。


燧ケ岳目指して(その1)

2011年10月05日 | 

 8月27日~28日に行く予定だった燧ケ岳登山。不名誉な負傷の為行くことが出来なくなってしまいましたが、左手首のリハビリが順調に進んできていましたから、再度燧ケ岳登山を志向して、やはり前回の山行に不参加の山仲間Kさんと相談すると、ご一緒しましょうとの事。しかも車出しますとも。そこでふたりで、快晴の見込まれる10月3日(月)~4日(火)に今年2度目の尾瀬に出掛けて来ました。

 計画した往きのコースは7月の尾瀬行とほぼ同じですが、バス利用がマイカー使用になり、Kさんの運転で尾瀬戸倉まで。ひばりが丘発が7時、戸倉着10時。10時10分発のマイクロバスで鳩待峠着が10時40分。昼食後行動開始。ここから山の鼻までの下り道は、以前はごつごつした岩を歩かねばならない場面もありましたが、2本の木道がきちんと整備され、実に歩き易くなっています。


 1時間で山の鼻到着。予想したほどの快晴ではありませんが、至仏山も燧ケ岳も良く見えます。特に至仏山は白いものが山頂付近を覆っています。霜か樹氷かと予想しました。眼を尾瀬ヶ原に転じると、花は殆ど見当たりませんが、草原が薄いきつね色に色づき、既に秋の終りの風情です。行きかう人も以外に多く、「こんにちは」の挨拶に、
どなたからも「こんにちわ」の笑顔が返ってきて、気持ち良く、右側の木道を歩き進みます。健康だからこそ味わえる至福のひとときです。(写真:登る予定の燧ケ岳。標高2356m)

 しかし牛首に到着する頃には、至仏山と尾瀬ヶ原は濃い霧に包まれ始め、冷たい雨が降って来ました。その雨は雪に変わりました。既に着込んでいたセーターと雨具で氷雨と寒さを凌ぎます。晴天に伴う冷え込みがあるとの天気予報でしたが、まさか10月上旬に雪に逢おうとは思ってもみなかった事です。


 その雪も竜宮小屋を過ぎるころには止んで、再び至仏山が見え始めました。今日のお宿は下田代十字路(=見晴)にある桧枝岐小屋。13時45分に到着。鳩待ち峠から2時間45分での到着です。(写真:尾瀬ヶ原とそこから眺める至仏山。山頂付近は薄い白色)






 明日の登山路を確認し、16時過ぎには入浴。冷えた体に嬉しいおもてなしです。尾瀬は水が豊富なのでこんな贅沢に巡り合えます。夕食時食堂に集いし人は僅か5名。本日の宿泊者全員です。1つのテーブルに5人分の食事が用意されていて、自然に会話が弾みます。女性2名は尾瀬ヶ原探索目的。神戸からの一人旅の、50歳代後半と思しき男性が一人。彼は今回の旅行で既に至仏山と燧ケ岳登山完了。この方とは後でとんでもない場所で再会します。そこで彼の事を”ヒゲジイ”と呼ぶ事にしますが、ヒゲジイは阪神淡路大震災の被災者。その時の様子も伺いました。
 
明日4時起床の私たちは、やや早めに話を打ち上げ個室へ。9時消灯を待つまでも無く、すぐに眠りに着いたのでした。