マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

大泉高校同期会に出席

2012年02月20日 | 身辺雑記

 昨日の2月19日(日)、大泉高校定時制の昭和43年3月卒業の同期会が、大泉福祉会館内「味三昧」で行われ、参加して来ました。参加者は元教員3名、元生徒12名(男子4名 女子8名)の合計15名です。
 1967年(昭和42年)4月に大学を卒業したばかりの、新参者の私が初めて赴任した大泉高校定時制で、当時4年生だった生徒さん達の同期会です。その当時既に高校4年生、社会人としてもかなりの経験も積んでいて、皆逞しく、自信ありげに見える生徒達。私はその学年の副担任に配され、5月にはその学年の修学旅行に引率の一員として参加。年齢差も余り無かった事もあり、先生というよりも兄貴的存在であったようで、卒業後何人かの生徒達とは幾つかの山行を共にしたりしてきました。同期会が開催されると毎回のようにお声が掛り、私も必ず参加してきた経過がありました。
 さて、大泉学園駅に集合した一同は、徒歩で懐かしの大泉高校に向かいました。元教員も元生徒も”桜並木”を歩きたいのです。正門から校舎までの100m弱の道のりには桜の木々が生い茂り、春四月には花吹雪舞う小道の中を歩み、通ったのです。大泉の学び舎の思い出はこの桜並木と共にあります。
 昭和42年当時、都立高校の採用試験に合格した者に対し、学校の校長から「我が校に勤務しないか」とお声がかかり、その面接を通過すると、都教委へ報告され、その学校への赴任が確定していました。逆にその学校を選択したくなければこちらから拒否することも出来、面接後私からNOの返事をしたこと高校もありました。当時西小山に住んでいた私にとって西武池袋線大泉学園は非常に遠い学校でしたが、3月に面接に訪れた折りにこの
桜並木を見て、是非この高校に勤務したいと思ったほどの、佳き光景だったのです。

 残念ながら校舎は改築中で、桜並木の正門は封鎖されていて、隙間から微かに並木を覗くしかありませんでした。西門から校庭に入り円形校舎の前で記念撮影。この円形校舎も給食を摂った懐かしの場所。間もなく解体されるようで、辛うじて再会が果たせました。
 12時20分から宴会開始。元生徒さんの最年少は63歳。男子生徒も女子生徒もほぼ現役引退をしています。ひとりひとりの自己紹介を聞くうちに、漸く全ての生徒の名前と顔が一致してきて、ここに集う生徒全員の名前を記憶します。自己紹介を通じて語られる話に自慢話は登場しません。過去や現在進行形の大変な事柄が語られました。多くは病です。夫との死別や離別も語られました。税金に苦しむ話も登場します。
 座が崩れ三々五々の小グループでの会話。45年前の事柄が再現し、語られた事でしょう。私は4月の雪の蓼科山に挑戦し、危うく遭難しかかった女性2名と、当時の思い出に会話が弾みました。夏には我が別荘に宿泊し、蓼科山登山のリベンジをしようとの話まで飛び出しました。酔った勢いの話しかも知れませんが・・・。
 
突然幹事から”一つの宣言”が飛び出しました。「毎年5月の第3日曜日に同期会を開催します。会場はここで12時開会です。一番若い人が100歳になるまで続けます」との効率的開催宣言です。お開きの後、生徒さん達は2次会へ。私は特別のお菓子とバラの花をお土産に頂いて早々と帰宅しました。


キャメロンハイランドでの日々(マレーシアレポート その2)

2012年02月18日 | 


 キャメロンハイランドと言っても広い地域を指します。その心臓部を貫く国道(?)沿いに、タナ・ラタやブリンチャンと言った街が点在します。日本に擬えれば、蓼科高原を通るビーナスライン沿いに白樺湖の街や車山や霧ヶ峰があるみたい、とでも言えば少しは実態を表現出来たでしょうか。(写真:タナ・ラタのバス停にある看板)





 
私たちが滞在したのは、そのなかでも、キャメロンハイランド入口にあるタナ・ラタの街です。生活してみて分かった事ですが約1Kmほどのメインストリートの両サイドには多くの商店が店を広げています。中華料理屋・インド料理屋・雑貨店・郵便局・銀行・宝石店・インターネットカヘ・クリーニング店・床屋さん等などです。東京で譬えるならば東十条商店街のようです。日曜日の朝には、広い空き地に朝市が立ち、果物や野菜、魚など地元産らしい新鮮な食料品が山と積まれ、賑わいます。要するに生活に必要なものは全てタナ・ラタの街で間に合うのです。(写真:日曜市にて。豊富に積まれた野菜)



 その中心街から少し外れ、前日難儀した坂を昇った小高い丘に「ヘリテイジホテル」やアパート群が立ち並び、このホテルやアパートに日本人観光客が宿泊しています。因みに同行のMさんご夫妻はホテルに、アパートの一室に妹夫婦と私の友人Kさんと私が宿泊し、Sさんは他の棟のアパートを借りました。日本人観光客と言ってもリタイヤーした年金生活者が殆どで、中心街からこのヘリテイジ村に通じる坂をいつしか”年金坂”と呼ぶようになったとか。(写真:ヘリテイジ側から見る年金坂。向こうがタナ・ラタ中心街)




       (写真:ヘリテイジホテル)



 アパートと言っても広い間取りです。私たちが借りた部屋は3LDK。3寝室とキッチンと広いリビングを備えます。申し分ない賃貸部屋ですが、問題は満足に湯が湯船に満たない事。銭湯派のマーちゃんが一番困ったことでした。家賃は4万円程度と聞きました。(写真:私たちが宿泊したアパート)









 さて年金坂を昇ったところ滞在したり、定住したりしている日本人が加入している会が「キャメロン会」です。組織人数の正確な数は聞きそびれましたが、年間2回開かれる総会の出席者数から推測するに500人は加入しているでしょうか。その下部組織に、山岳部・テニス部・ゴルフ部・麻雀部などがありますが、会員の活動はこれに限らず、写生会やケーキ作りなどの文化的活動も幅広く行われているようです。



 さてそこでの私の生活のあらましは次の様でした。午前中がゴルフ、昼食後帰宅し、午後は読書と昼寝。夕食後に麻雀。その後は飲酒とお喋り。日頃の生活とはかなり違った”優雅な日々”、いや、言い換えればテイタラクでのんびりとした日々を過ごしたのでした。(写真:室内から見る南国の満月)






 さて私がお世話になったのは山岳部で、ゴルフは主として、義弟とSさんとKさんの4人で出掛けました。ゴルフ場は隣町ブリンチャン近くにあり、ここまでバス利用だと1リンギット、タクシー利用(4人乗り)だと1・5リンギットでした。このゴルフコースは現在ハーフコースが改修中で、毎日残りのハーフラウンドを廻りましたが、利用料は21リンギット。日本円にして550円程度。町内会の方から誘われる事になったゴルフを、お安く、数多く練習することも今回の旅行の狙いの一つで、Kさんと二人で廻った日が今までに最高の出来で、次の日からは、元の木阿弥。体の固さを実感したのでした。それにしてもコース途中に幾つもの川があり、203高地と名付けられた小高い丘もありの難コースでした。全部で8回プレーをし、総費用は240リンギット(6240円位)。
 ここからタナ・ラタまでの帰路は徒歩で3Kmの道のりを歩いて帰宅する事が多く、これが日々の散歩になりました。暫くは日本での生活についてのブログに戻り、ハイキングなどに触れるキャメロン報告は、暫く間を空けてからにします。


キャメロンハイランド目指して(マレーシアレポート その1)

2012年02月16日 | 

 1月29日(日)、マレーシアのほぼ中央にあるキャメロン高原を目指して、妹夫婦を道先案内人とする一行7名は、羽田国際空港を飛び立ちました。同行するは妹夫婦知り合いのMさんご夫妻・Sさんと、私の友人のKさんを含む総勢7名です。皆現役引退し、齢60歳を超えています。私以外はそれぞれ海外旅行経験が豊富で、妹夫婦はマレーシアに出掛けること6回ほど。それも滞在型の訪問で、路線バス乗車の経験もあることから、自然に旅の案内役を担っています。
 利用した航空会社は「Air Asia」で、航空券はインターネット購入。荷物運搬代金(20Kg以内)・機内食事代金等を含めて往復46344円。ANA・JALやマレーシア航空利用と比較して相当にお安いようです。
 まずは出発までの失敗談を。機内持ち込み荷物に飲料水や酒類などが禁止されていたとは知りませんでした。アメリカで起こった所謂”9・11テロ事件”以降、持ち込みが禁止されていたのです。羽田へ向かう途中この事を聞かされた私は、空港ロビーで、酒類はSさんにお願いし、自分の荷物の詰め替えを行いました。その時慌てていたので、手持ち荷物にヘアースプレーを入れていまい、税関通過時に”待った!”と没収されてしまいました。幸先の悪いスタートですが、兎も角、その日の24時頃離陸した航空機は、現地時間で翌朝6時15分(日本との時差1時間で日本時間7時15分)、クアラ・ルンプールLCCT空港に着陸。この間7時間15分のフライトでした。

 1月30日(月)の行程は次の様でした。
 LCCT空港(7時30分発)→(路線バス)→(9時着)クアラ・ルンプール市内プドゥラヤ(9時20分発)→(路線バス)→(13時30分着)キャメロンハイランド(13時50分発)→(徒歩)→(14時30分着)滞在アパート

 LCCT空港(Low Cost Carrier Terminal)到着後クアラ・ルンプール市街へ移動する為のバス乗車でまず驚かされます。バスの発着を尋ねる義弟Hちゃんに対してバスストップに立つ案内人は、この時間に出発するバスは無いとの応対。予め調べておいたHちゃんはおかしいと思い、少し先のバス停を訪ねると、こちらからは7時半発の路線バスありとの返答。市街に向かう路線バスが何社か競合していて、自分の会社に不利になる情報は、偽っても平気なのです。さて無事車中の客となり車窓から見るクアラ・ルンプールは超高層ビルが立ち並び、高速道路が複雑に交差する近代都市の様相を呈していました。乗車1時間半で市街到着。費用は8リンギット(1リンギット=約26円)、日本円にして208円程度でした。
 プドゥラヤからバスを乗り換えキャメロンハイランドを目指します。キャメロン高原はクアラ・ルンプールから北東200Kmも離れた地にある、標高1500メートルの山間の地。乗車時間約4時間余りの後到着。こちらの費用は35リンギット(910円)
 キャメロン到着後も困難が待っていました。普通に歩けば徒歩10分の上り坂を、10Kgのバックを背負い、重さ18Kgのトランクを押し、重さ15Kgのゴルフバックを抱えて、ホウホウの体でアパート(3LDKの家屋)到着。羽田を飛び立ってから14時間30分を掛けて目的地に到着したのでした。
 その日の夕食会は、私たち7名の歓迎会を兼ねて中華料理店で開催され、中華風鍋料理とビールに一息ついたのでした。夕食代は20リンギット(=520円)でした。かくしてキャメロンハイランドの初日の夜は暮れて行きました。
 
 

 


君原健二さんに寄せて(その2)

2012年02月14日 | スポーツ

 朝日新聞夕刊登場の「人生の贈りもの」はインタビュー形式で記事が仕上がっています。そこから浮かび上がる君原健二像を時系列で追ってみると、
 小学校時代の成績は所謂5段階評価で5が一つもなく、自分は運動も勉強もできないと劣等感を抱いてしまい、その意識がずうっと身にまつわりついてきたそうです。それが、中学1年時、校内持久走大会で200人中11位に入り、それが原因で、誘われて駅伝クラブに入部。3年生で駅伝代表選手の最後の一人にギリギリで選ばれ、その事が彼の価値観を大きく変える出来事になったようです。高校進学後、高校総体1500メートルに出場するも予選落ち。駅伝では区間賞を出したこともなく、八幡製鉄(現新日本製鉄)へは、駅伝大会へ出場する選手が足りないからとの理由で入社が内定。
 ここまで読んで来て、一流と言われるマラソン選手からは考えられない様な平凡なコースを歩んで来た事を知ります。小さい頃の劣等感を抱き続け、一流選手にはなれるはずがないと思いながらも走る続けた10代。ただ「練習しろ」と誰からも言われないで、自分からグランドに出て行かねばならなかった事で、自主性を育てることが出来たのは良かったとも語っています。

 八幡製鉄入社後、すでに2人の先輩が東京五輪を目指しマラソン練習を始めていたのに刺激された君原もマラソン練習を開始し、1962年、21歳で朝日国際マラソン初出場。順位は3位で、日本最高記録でした。高校時代まで全く無名の陸上選手が2年数ヵ月の練習で何故この様な成果をあげられたのか。この間の過ごし方に焦点を当ててのインタビューがなされていないのが残念ですが、兎も角、「手の届く様な目標しか持てない、気の弱い人間でしたけれど、この時はじめて大きな目標を持てました」と述べています。1年半後に迫っていた東京五輪を意識し始めたのでした。
 東京五輪では、円谷幸吉はトラックでヒートリー(英)に抜かれ3位銅メダル、期待の一番大きかった君原は8位に終わります。この時のコーチが名伯楽として名高い高橋進。私の目には素直な性格に見えた君原がコーチに反抗しながらの練習の日々であったとは、この記事を読んで初めて知った事柄です。
 五輪後、退部届を出した君原を再度の五輪挑戦へ向かわせたのも高橋進コーチ。メキシコ五輪では銀メダル。このとき彼はゴール直前で初めて後ろを振りかえりました。自殺して亡くなった親友円谷の無念さをも思い、何とかメダルをとの想いがそうさせた様です。ミュンヘン大会は5位入賞に留まりましたが、
オリンピックでマラソン3回出場は君原のみ。2大会連続入賞は中山竹通と二人。
 全競技人生でマラソンでの優勝12回。引退後もマラソンを続け、60回全て完走を続けるランニング人生は輝かしいものですが、そんな彼からの”教訓”は奇をてらうことなく平凡です。子ども向けの色紙には「人間に与えられた最大の力は 努力です」と書く事が多い多いそうです。言い古された”努力”という言葉が、学生時代何の実績の無かった君原が語るとき、その重みを感じます。
 現在は大学特任教授にして、毎年円谷の墓参りを欠かさないという。数年前からパソコンを始め、ブログを書き、毎日お酒を飲むという。その様な彼は身近に感じられます。


 


君原健二さんに寄せて(その1)

2012年02月11日 | スポーツ

 朝日新聞夕刊に「人生の贈りもの」という欄があり、1月21日~25日までは君原健二さんが登場していました。1968年に行われたメキシコ五輪のマラソンでの銀メダリストです。引退後もマラソン大会に参加し、合計60回のマラソンを走り、棄権ゼロという輝かしい実績を持ちます。現役時代も含めて、その走りや生き方に共感を覚え、応援をし、私のランニングにも少なからず影響を与えてくれた、私と同い年君原健二さんに、新聞紙上とは言え再会出来、自分のランニングの来し方をも思い出しました。

 小学校の頃の徒競走で、私は3位以内に入った記憶がありません。不得意科目の一つでした。それが中学2年生の時の校内マラソン大会で突然2位入賞を果たします。原因は明瞭です。小学校卒業の翌日から始めた新聞配達は、出来るだけ早くお客さんに新聞を届ける為に、走って配る事が奨励され、強制もされました。重いものを抱えて走る訳ですから、今で言う負荷トレーニングを毎日やっている様なもの。負荷無しで走る校内マラソンは普段に比べて格段に楽に走れたのでした。中学3年生の時の運動会で1500mにも準優勝出来ました。
 中学卒業後の社会人時代や大学生のころはランニングと縁がありませんでしたが、教員になって13年目に赴任した向丘高校に「クロスカントリー」というランニング大会があり、若手教員は生徒と一緒にその大会に参加すべく、校舎の周りでのトレーニングをやっていました。昔取ったなんとやら、すぐさま私もこの練習に参加。これがその後私がランニングやマラソンにのめり込む切っかけになりました。日頃の練習場所は今問題になっている皇居周回コースか六義園。参加した大会は青梅マラソン・河口湖マラソン・佐倉マラソン・荒川マラソン等々、数え切れない数に上ります。自己ベストは河口湖マラソンでの3時間16分台でした。
 私のランニング空白時代に、マラソンで活躍していたのが、円谷幸吉や君原健二です。1964年の東京五輪では円谷は銅メダル。君原は8位に終わりました。ただ彼の不屈とも言うべき姿はテレビ観戦で感銘を受けていました。首をかしげ左右に振りながらの走法は今にも倒れそうに見えながら、それでも全力を出し切っている姿に感動したのでした。その後出場した全てのマラソンを完走したことを知り、ますます彼を尊敬する様になりました。その後自分がマラソンを走る様になったときに、苦しい場面で思い出したのは彼の姿でした。
 今回彼の人生経路を読んで、私の想像していたとは大分イメージの違う事柄もありましたが、基礎的な認識は全く変わりませんでした。それについては次回ブログで。