マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

花見川へ

2013年02月08日 | 身辺雑記

 2月3日(日)、家人の友人のFさんを訪ねて花見川団地へ出掛けた。こちらを訪れるのは、お母様が亡くなられた1982年以来31年振りのこと。昨年、お父様も世を去られ、それを契機に部屋をりホームされたので、その様子を見せて頂こうとの”見学会”も兼ねていた。

 この団地は、多分昭和40年代の創設。以来40年は経過していると思われるが、お宅へと通じる道沿いには桜などの樹木が多く植えられ、花壇や滑り台・ブランコもあり、人や子に、優しい感じがする造りで、低層の建築の故か、落ち着いた雰囲気が感じられる団地だ。
 部屋にお邪魔するのは初めての事。まずは室内を案内して頂く。目につくのが、今時の団地には珍しい、大振りのガッチリとした引き戸。キッチン&
リビング・書斎・寝室とキッツリと仕切られた部屋を見て、家人が羨ましがった。
 昼食はブイヤベースと、家人の食を案じて、野菜をじっくり煮込んだ手作りの料理を美味しく頂いた。(写真:団地風景)

 Fさんは秋田の高校を卒業後に上京。都内の国立大学で英文学を学んだ後、教員への道に進んだ。家人は1973年に、私は1981年に職場を同じくする縁で知り合いとなった。家人は同じ学年を組んだこともあり、40年間にわたり、親しく付き合って頂いている。私も、三井記念美術館のチケットを頂いている。私から見たFさんは、兎も角、生徒への思いが強い先生である(であった)。教職勤務38年で定年を迎え、現在はギリシャ語とラテン語の学習に通う語学三昧の日々。

 食後、達筆で書かれた履歴書なども含め、父上の遺品を見せて頂く。写真家でもあった父上は、戦時中、南方へも写真撮影に赴いたそうで、実は密命を帯びていたらしいとはFさんの推測。”密命”はいずれ私がミステリー小説を書くときのネタに使いたいのでここでは非公表(??)

 話は近辺の地理に及んだ。花見川が近いという。その川沿いのサイクリング道路は東京湾まで通じ、そこからは富士山が眺められ、毎年1月2日にはそこまで散策をするとの事。そんな話を聞いて、花見川?何処から流れ来る川?。検見川と花見川とはどう違うの?こんな疑問と川見たさに、私1人、会話を抜けだし、
ぶらり散策へ。

 花見川は緩やかに流れる、中程度の大きさの川だった。付近の花島観音にお参りし、上総掘りの井戸を見学して帰って来たが、どこからも団地が見渡せ、かっては3万人もの住民が住んでいたこの団地の広さを知った。団地のはずれには雑木林も残されおり、Fさんが長年見慣れてきた風景を私も初めて見て、Fさんがより近くに感じられた。
 利根川からの流路の一つは印旛沼に流れ、印旛沼から東京湾へは放水路を作り、上流から順に新川・花見川・検見川と呼ぶ事を知った。(写真:川の名はこの辺りでは花見川)



     (写真:花島観音に隣接する天福寺)

    (写真:上総掘りで掘られる井戸の風景)

 Fさんの案内で、私達夫婦も含めてイタリア旅行をする予定だった教員時代。家人の癌が原因で、それは叶わぬ夢となってしまった。いとせめて国内旅行をしましょうと、6月には彼女の車で勝浦に行く日程を決めて、花見川を後にした。
 


団十郎さんを悼む

2013年02月06日 | 医療

 2月3日、歌舞伎俳優の市川団十郎さんが、肺炎のため66歳で急逝された。衷心よりお悔やみを申し上げ、ご冥福を祈ります。
 昨年末には中村勘三郎さんが57歳で亡くなったばかり。新歌舞伎座での舞台に立てなかったお二人の無念さを想う。こけら落とし興行の6月には「助六」が予定されていたそうで、団十郎の雄姿を二度と観られない残念さがこみ上げてくる。

 団十郎を最後に観たのは、昨年の10月「大歌舞伎」。夜の部の「勧進帳」での富樫役で、弁慶は松本幸四郎。二人の役どころは昼と夜で逆転し、昼の団十郎は見なかったが、弁慶役で『団十郎の心は富樫にはなく、ただ義経を守ることにある。それは富樫との対決が済み、酒を勧められて舞う時にも現れて、主君一筋の武骨な漂泊者の悲しみがそくそくと伝わってくる』との劇評にある様に、男気豊かなで、豪快な荒事(あらごと)を得意にした舞台を何度かは観られたのに・・・。
 朝日新聞には『2011年から全国骨髄バンク推進連絡協議会長として患者の支援活動に励んでいた。自身が出演する公演には、白血病患者や家族を無料で招待していた』とも紹介されていた。

 それにしても歌舞伎役者とは何と体力・気力を必要とする稼業なのか。この2年数ヵ月の短い歌舞伎見物でも、”舞台に命を掛ける”との表現がぴったりする様な場面の身近にいた事になる。
 11月2日に観た「吉例顔見世大歌舞伎」での片岡仁左衛門。病の片鱗をも見せず元気に出演していたのに、体調不良のため翌日から休演。復帰は23日となる重い病だった。
 2年前の9月歌舞伎「沓手鳥孤城落月」の淀君と「口上」に出演した中村芝翫は、確か1日の出番で病に倒れ、10月10日には亡くなられた。代役は福助だった。恐らく病をおしての舞台と稽古だったろう。
 市川染五郎が上演中の舞台で奈落に転落したのは8月27日。重傷で危うく一命を取り留めた。9月1日開幕の「秀山祭九月大歌舞伎」観劇時に、当然彼の姿は無かった。
 以前に増して歌舞伎に関心が向くようになっている。新歌舞伎座にも興味が湧く。


「東京『暗渠』散歩」(編集:本田創 出版:洋泉社)

2013年02月04日 | 読書

 本は買わずに、図書館で借りることが多くなっているが、久し振りに、今年に入ってから2冊購入した。「東京『暗渠』散歩」と「節義のために」(後藤正治著)である。「節義・・・」はエッセイ集で、毎晩、就寝前に2・3節ほど読み続け、「暗渠・・・」は全体を眺め終えたところ。
 日頃から、東京の「暗渠」の全体像を知り、その幾つかを辿って見たいと思っていたところ、格好な本の出版を知って購入し、今後に生かそうと考えている。

 序で「東京の暗渠」に触れ次の様に書き出している。
 『「暗渠」とは、かって流れていた川の流路の痕跡。蓋をされた河川や、地中に埋設した水路のこと。蓋をされた理由は様々だが、いずれにしろ、そこに水面があることが邪魔になり蓋をされてしまった川の痕跡。かって、山の手から武蔵野台地にかけて無数の川が流れていたが、今では本流(目黒川・神田川・渋谷川)を残し大部分が暗渠となり、その姿を消してしまった。しかし本当に川は姿を消してしまったのか。暗渠を辿ると、かって川が流れていた痕跡をあちこちで見出すことが出来る。それらは「川の抜け殻」である』とある。全く同感である。私が歩いている道の下を、かっては川が流れ、今は暗渠となっていることを知ると心騒ぐのである。”抜け殻”を発見すると興奮するのである。

 この本で紹介されている本流は、渋谷川・神田川・目黒川・呑川・石神井川の5つ。更に4つの上水に加えて、本流に流れ込む支流、例えば田柄川や九品仏川・谷田川などをも合わせて、30もの暗渠が登場している。そのなかで、部分的には歩いた暗渠もあるが、全ルート歩いたのは、巻石通りと谷田川の下流の藍染川。


 1月27日(日)、菊坂そばを流れていた「東大下水」を散策した。永井荷風が「日和下駄」で、”本郷なる本妙寺坂下の溝川”と記した流れ跡である。
 水源は本郷東大構内。そこから流れ出し、岩槻街道(現本郷通り)と交差する辺りが、「見送り坂」「見返り坂」。現菊坂に沿って暫し進んだ流は、菊坂と別れ、その左側の低い窪地を進む。樋口一葉や宮澤賢治の旧居を抜け、私の好きな菊水湯手前を左折し、曲がりくねった細い露地を抜けて、白山通りに出て、小石川暗渠に合流する。
 小石川暗渠に合流する”支流暗渠”は幾つもあり、それらを合わせて”東大下水”と呼んでいた。この本の著者も、東大(とうだい)下水と思いこんでいたようだが、実はそれは誤りで、”東大”(ひがしおお)下水が正しい呼び方。私も水源から判断し東大(とうだい)下水と長い間思っていた。
 この暗渠には、江戸から明治・大正・昭和・平成に掛けての時間が凝縮している。暗渠のラインを辿るとき、時空をも重ねて体験出来ることとなるのが暗渠散策の楽しさだと実感出来るルートであった。
 
(付記。この暗渠沿いに井戸が幾つか残されていて、菊水湯は井戸水使用である) 

        (菊水湯)

     (一葉旧居そばの井戸)

  
                (暗渠露地)        
 
 
 


『巨椋池』考(その2)

2013年02月02日 | 学び舎

  前回のブログ「巨椋池」(その1)の続き。1月29日(火)の「お話会」では、まず家人が「巨椋池と文学」について語った。
 万葉集に詠われ、源氏物語「椿姫」・「浮舟」などに登場し、平家物語にも語られた巨椋池。特に平家物語の「大納言流罪」の巻きでは、
 『・・・熊野詣、天王寺詣りなンどでは、二つ瓦の三棟につくツたる舟に乗り、次の舟二三十艘漕ぎ続けてこそありしに・・・』とあり、大きな艘が二三十もの舟を従えて運行出来るほどの港を持っていたことが分かる、と紹介された。
 巨椋池は古代・中世を通じて、水上交通の中継地として大きな役割を果たす一方、陸上交通としては奈良街道が、巨椋池の外縁部を通っていた。
 
要するに人の往来が頻繁で、世に知られた古典などにも詠まれ、語られた巨椋池。

 続いて、渡辺さんは各種地図を用いて、この池の変遷を説明。巨椋池は太古には京都盆地をすっぽり覆っていた旧山城湖の名残であること。有史時代に入り一番大きな変更は秀吉の付け替え工事。琵琶湖から流れ来た宇治川は、伏見城建築に伴う土木工事で、流路はそれまでより北に付け替えられ、面積は約8万平方キロメートル(文京区の面積は11万平方キロメートル)に減少。明治時代の大洪水の後は、宇治川は再度の付け替え工事が行われ、昭和に入ってからの干拓工事により池は完全に姿を消してしまった。
 1953年の台風13号で、宇治川が決壊。大洪水の後に巨椋池が”復活”したこともあったそうな。これを契機に出来たのが天ケ瀬ダム。。(写真:在りし日の巨椋池)
 詳しいレポートがなされたが、大幅に割愛。

 渡辺さんの話で特に面白かった点を強調すると、『自然に任せていた流れを、川を建造して一本の流路に造り変えれば、水はそこだけを流れますから、土砂もそこに集中し、その土砂により川はだんだん高みを流れることとなり、更に高い堤防が必要となりますが、もしその堤防が決壊すれば、川と低地の差が大きほど甚大な被害が起こります。自然に任せた流の方が良い事もあります』と。目からウロコの話し。
 家人が調べたところによれば、現在木津川堤防と最低地の高低差は17m。ハリケーン被害のニューオリンズの時の高低差が10m。高低差を比較すると、大きな被害が出る可能性があると指摘。
 この地域では巨大地震より大洪水の方が恐ろしいと指摘する学者もいる

 「お話会」を終えて数日後、来年にでも巨椋池の跡地見学に出掛けませんかとの家人の誘いに、賛同者2・3組。参加者の多くの方がインタレストを感じたテーマだったようだ。