マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

三島神社にまつわる話

2016年07月21日 | 東京散歩

 昨日の朝、中学校時代からの友人馬場さんから、次の様な内容のメールがあった。「三島神社の女宮司の河野正枝さんは、夫とは俳句仲間で、国学院で宮司の勉強をしました。又、鶯谷駅近くに元三島神社という、古い神社があり、それが昔の三島神社ではないかと夫は言っています」と。

 夫さんとはこのブログに何回も登場している『轟亭の小人閑居日記』の著者馬場紘二さんのことである。女宮司さんと紘二さんが俳句仲間だったとは!世間は広い様で狭い。
 私は早速三島神社に電話した。三島神社のHPには女宮司さんの写真が載っているので、その転載をお願いする為だ。電話には直接河野正枝さんが出られ、色々と話し込んだ。宮司となった後に慶応大学通信学部で学んだこと。多分娘さんが宮司を継ぐこととなり、彼女は正に河野通有の子孫に当たること。次回こちらに見えるときは前もって電話を下さいと携帯電話番号まで教えてくれた。親切で話好きな気さくな方との印象を持った。勿論写真掲載OKとのことだった。(右に掲載)




 気になっていたことがあった。それは、冒頭の青字の部分だ。私も下谷方面へ出掛る前に地図上で鶯谷駅付近に元三島神社があることに気が付いていて、三島神社とどの様な関係にあるのだろうと疑問を感じていた。三島神社の謂れに「三島神社は1710年に浅草へ遷座した」と書かれていることも不思議だった。(写真は元三島神社:今朝散歩に出掛けようとしていたが雨の為断念)





 ネット上の「猫の足あと」などを参考に調べたところ次の様に整理すれば良いと思っている。
 (1)
元寇「弘安の役」の際、河野通有は氏神である伊予大三島神社に戦勝祈願して出陣し、勝利した後、上野山中の河野氏館に分霊を勧請して神社を創建したと伝えられている。
 (2)1650(
慶安3)年三代将軍徳川家光から社地移転を命ぜられ、根岸から金杉村に遷座した。
 (3)更に
1710(宝永7)年、社地が幕府の御用地に指定されたため、金杉から
浅草小揚町に遷座した。
 (4)しかし、氏神様が遠くて困るという氏子一同の念願から、金杉・根岸の村民が相寄り協議を重ね、その結果、下谷には三島神社が、根岸にはこの地の熊野社と合祀をはかり元三島神社が成立した。
 (5)
浅草に遷座させられた三島神社は、何時からかは分からないが、通称本社三島神社(寿三島神社とも)と呼ばれるようになった。
 (6)
その結果台東区には現在、元三島神社・三島神社・寿三島神社の3つの三島神社がある。

 


三島神社へから石浜神社へ

2016年07月19日 | 東京散歩

 三連休の初日の16日、私は、お殿様の散歩コースを念頭に置きながら、文京区を起点に台東区・荒川区と、久し振りに自転車散策してきた。私が住む本郷台地から下谷方面に向かうには必ず上野台地を上り下りしなければならないはずだが、この日は西日暮里駅真下を通る切通しを抜けたので上野台地はかすっただけ。電動自転車ではない我が身には切通しは有難い。西日暮里駅を通過すると、もうそこが音無川暗渠だ。

 暗渠沿いの道をまずは東南東方向へ進んだ。途中、羽二重団子や芋坂などは素通りして「御行松」を目指した。江戸時代には多くの人が訪れ賑わいを見せたが、三代目の松はまだ背が低く、子規の句碑も建てられてはいるが、昔の賑わいは今はない。それよりもそのすぐそばにある「竹隆庵岡埜」の“こごめ大福”の看板が目を惹いた。お土産の包み紙には広重が描いた「御行松」がプリントされているはず。オミヤは帰路に買うことにして、ここで北へと流れる音無川暗渠から離れた。
 根岸柳通りを進むと右手にレストラン「香味屋」が現れた。30~40代の頃、何度も訪れた懐かしい洋食店だ。この辺りにあったのかと、昔の、点のみの記憶が、今回は線上の点としての記憶となった。



 左折して金杉通りを北へ進む。かつての奥州街道の裏道。昔ほどの繁栄は無いかもしれないが、昔の繁栄を今に留め、粋な街並みだった。今回の下谷散策で見つけた風情あるスポット。私好みの通りだ。昔ながらの商売を営んでいる商家が何件も見受けられる。その象徴というべき写真館をカメラに収めた。(写真は下に)








 
             (矢島寫眞館)

 「三島神社」は金杉通り沿いにあった。弘安の役で勇名を馳せた河野通有の発願により、氏神の大三島明神を上野の河野氏の館に勧請した後、この地に創建されたそうな。当神社の御本社は大三島にある大山祗神社で、宮司は代々河野氏の子孫が奉仕していると書かれていて驚いた。それ故か、現在の宮司は女性だ。
 例大祭は6月に行われ、連合渡御では、神社前の金杉通りに町会のお神輿がすべて集まるほどの盛大さとか。来年の6月に再度お参りをしようと心に決めて石浜神社へと向かった。(写真:三島神社本殿)





 

 三ノ輪から明治通りを真っ直ぐ東へ進むと、隅田川に架かる白髭橋のたもとに石浜神社はあった。(写真:石浜神社本殿)









 帰路は全く同じ道を引き返した。帰りに竹隆庵岡埜に寄って、”こごめ大福”と”とらが焼き”を買った。こごめ大福は格別に美味。実に大きくて、小豆の粒あんがたっぷり入っていた。重たいと感じるほどの大福だった。農林水産大臣賞を受賞しただけのことはある一品。(写真は最下段に)
 自転車で往復に3時間弱は掛かってしまった。石浜神社までの推定距離は7キロ。往復にして14キロはある。お殿様一行は皆健脚だった。いや、江戸時代はそれが普通か。
 台東区には4系統のコミュニティーバスが運行されている。次回は「南めぐりん」や「北めぐりん」を活用したい。(写真:竹隆庵岡埜の包み紙。御行松が使われている)


       (こごめ大福)


殿様の散歩道を辿って(その2)

2016年07月17日 | 東京散歩

 713日のブログに登場させた、1773(安永2)年915日の『宴遊日記』の続き。

 ≪・・・金杉の森のうち十余町はかりの程のほり立て賑ハし、鄽主に問へハ坂本の三嶋の祭礼のよし答ふ、浄光寺より東坂を下り根岸へ出、山伏松にかかり金杉一町目へ出、舟のやたいにて太鼓うち居たり、時口提燈等出・・・≫
 前回の日記最終場面で、米翁一行は日暮里の高台にある水茶屋で休憩していた。

 勝手解釈・・・日暮里の高台から金杉の森を見渡すと、10以上の町が幟を立てて大いに賑わっているので、あれは何かと店のあるじに問うと、今日は坂本にある三嶋神社の祭礼の日ですとの返事だった。それでは石浜神社に行く前に三嶋神社の祭礼も見学しようということになり、浄光寺(その頃は諏方神社の別当)の東坂(現在名は諏訪坂とも地蔵坂ともいう)を下って根岸へ出て、(音無川沿いに歩んで)山伏松(御行松と推定されている)に掛かり、金杉一丁目に着いた。舟の形をした屋台では太鼓が打ち鳴らされ、地口提灯(写真3:日記には時口提燈と書かれているが、今は地口提燈と書かれる。金杉は提灯制作が盛んだったとのこと)などが多数出ていた。

 この場面の行動範囲は下の写真1に丁度納まっている。
 浄光寺〈A〉から諏訪坂〈B〉を下った場面は、昨年11/01のブログに書いた様に都高教退職者会の東京歴史散歩のときに、〈B〉→〈A〉と昇った。
 〈C〉→〈D〉→根岸〈E〉→御行松〈F〉は音無川の岸辺道。この場面も昨年12/22のブログに“音無川と王子街道”に書いた。現在の三嶋神社は〈G〉の右側辺りにあったとのではという推定ポイント。〈A〉から〈F〉までは、殿さまと同じルートを私も歩いたことがあったので、昨日は散策ではなく、自転車でこのルートの更に先にある石浜神社まで出掛けてきた。


               (写真1:江戸時代の地図に記号を入れたもの)

 さて、お殿様一行が漸く到着した、日暮里の高台から見渡した金杉。『下谷 おさんぽマップ』に解説されている。以下引用すると
 “現在の根岸、下谷は古くは金杉村と呼ばれ、江戸時代には、金杉、三ノ輪は、江戸の近郊農村として発展していった。金杉村の南側一帯は「根岸の里」と呼ばれ、音無川が流れる閑静な田園地帯。宮家が隠居所を構える、江戸の別荘地であった。上野の山を望み、鶯が鳴き、鶴が飛来するーー花鳥風月、雪月花、四季の風情にひかれ文人墨客が好んで住んだ。江戸琳派の祖となる酒井抱一は根岸に雨華庵という草庵を編んでいる。現在の金杉通りは、古くから日光に続く街道で、その脇には町場が形成され、今も提灯職人の工場や町屋の町並み風情が残る。金杉という町名は現在はなくなっているが、通りや町会名などに見ることができる」とあり、金杉は別荘地帯であり、その脇には町場が形成されていて大そうな賑わいであったことが判る。

 問題は三嶋神社が金杉のどの辺りにあったか。現在の地図を江戸時代の地図と対応させて下の写真2を載せたが、現在の神社は金杉通りに面して、根岸4丁目にあるが、残念ながら江戸時代の地図上にではその位置を確認できなかった。

 そこで昨日、自転車で写真1の〈C〉→〈F〉と回り、併せて三嶋神社と石浜神社に詣で、金杉通りを散策して来た。次回のブログに。


         (写真2:写真1の現代の地図。根岸4丁目の、金杉通りに面して三嶋神社は存在する)

              
 (写真3:地口提燈。おかめ八目をモジッテ”おかめはちまき”


ブルーベリーを摘みに

2016年07月15日 | 信濃紀行

 『宴遊日記』から一時離れます。
 一昨日、今年もブルーベリーを摘みに、「指圧屋シュークロース」の水野さんと富士見町に出掛けて来た。天気予報によれば長野県富士見町は雨。もう1週間先延ばしという手もあったが、既に1週間前の6日は妻が帯広滞在の為順延していた。もうこれ以上延ばせない、少々の雨ならば雨衣を着て摘めばいいと腹を括り、富士見行を決行した。
 640分、今年はレンタルした、水野さん運転の車がマンション前到着。妻もこの計画に同行。代官町で首都高に入る頃には雨が降り出して来た。農園の平出さんに「雨ですが向かっています」との電話を入れると「富士見町は雨降っていません。晴れ間も見え、午前中は持ちそうな天気よ」との応対で一安心。2時間半で農園着。9時15分には摘み始めた。

 ここの農園を訪れてから早や12年が経過していた。1回は妻の病で行かれなかったがそれ以外は年中行事となっていた。ブルーベリー園担当の妻さんとも随分親しくなっていて、妻はテントの中で奥さんと話し込んでいたが、私は4キロは摘もうと意気込んで、雨が振り出しそうなブルーベリー畑へ飛び出して行った。
 それなりに経験は重ね来た積りだ。効率的な自分なりの摘み方も掴んだ。私の方法は次の3つ。
 (1)実の大きい枝を見付けたら、その枝の実を全部摘み尽くす。枝を自分側にたぐりよせると摘みやすい。
 (2)実が疎らなところでは両手で摘む。
 (3)実が見えなくなったら足元を見渡し、実が豊富ならしゃがみ込んでも摘む。
 この様に40分ほど夢中になって摘んでいると雨が強くなってきたのでテントへ戻り雨衣を着た。再度摘み出して間もなく雨脚は一段と強くなってきので、1040分で切り上げた。合計で3.2キロしか摘めず目標達せず。今年が3年目の水野さんで2キロ少々。結局私は3キロ分3300円を、水野さんは2キロ分2200
円を支払い、最後にオマケを足して貰って今回のブルーベリー摘みは終了。モロッコインゲンとルバーブを御土産に貰った。珍しく夫さんもいたので経歴をお聞ききすると元国鉄マンとの事だった。(写真:その夜は果実酒に)

 雨が強烈な勢いで降りしきる中、自由農園へと移動。水野さんも私達もここの新鮮野菜が気に入っていて、水野さんは6000円ほど、我が家も4000円ほど野菜を購入した。車だと大量に買って帰れるのが良い。
 茅野駅隣接の市民会館内「アンダンテ」でランチ。800円の定食はコーヒー飲み放題。
 その後「角上」で新鮮な魚を購入。完全に買い物ツアーだ。
 旅の仕上げは温泉。諏訪に来たのだからと、建物が重要文化財の「片倉館」で雨に濡れた体を温めた。
 最後に養命酒製造会社が造った「くらすわ」で御土産を購入。私は地元諏訪の酒「横笛」の大吟醸を購入し、帰路に着いた。自宅着1830分。出発からほぼ12時間が経過。全て水野さんの運転。水野さんには感謝!感謝!高速代とガソリン代は〆て11870円。お一人様の費用は3956円だった。(写真:右は温泉入口。下は前庭)



殿様の散歩道を辿って

2016年07月13日 | 東京散歩

 『宴遊日記』の1774(安永3)年9月15日の項は大変興味深い文章だった。
  その日、柳沢信鴻は五男珠成を同道させ、六義園の別邸から富士神社の前を通り、神明宮(現天祖神社)に立ち寄った後、日暮里に至り、根岸を経て三嶋神社と真崎神明宮に参詣して帰宅するまでの様子が記録されている。私が日頃歩く道路や出掛けて行く神社などが登場していて興味が尽きない。この日は20行の記述であるが、そのうちの数行をここに登場させ、私なりの解釈・補足を加えたい。現代文でないからと言って敬遠し過ぎることはなかった。読み始めるとなかなか読みやすい記述。更には日記からは読み取れなかった不動坂下⇒日暮里の道筋を探しに、昨日の12日早朝推定路を辿って来た。その結果も合わせて綴りたい。日記文は≪≫、私なりの補足は( )文にした。〈記号は下図写真参照〉

 ≪・・・九半より珠成同道真崎へ行富士前より神明、夜宮故里童太鼓打ゆえ社へ立寄、裏へぬけ不動坂を下り、秋天大いにはれ西天白雲水のことし、
 勝手解釈・・・この日の午後1時に珠成(米翁の五男で、江戸によく遊びに来る。後に里之と改名して養子に出、越後三日市藩第四代藩主となった)を同道し真崎神明宮を目指して六義園〈A〉を出発。本郷通りを経て富士神社前〈B〉を通り、更にその通りを〈C〉で右折して神明宮(D)に至った(現在の天祖神社へ通じる文京9中前の道はその頃はなくて、〈C〉から宮へ入った)。神明宮は翌日が大祭ゆえ里の童が太鼓を打っているので立ち寄った。(記述の9月15日の翌日の9月16日は現在も天祖神社は大祭の日で、氏子14町会の神輿が集まってくる)
 神明宮には裏へ抜ける道〈E〉があり、裏へ抜け(現在も裏門がある。写真2)不動坂〈F〉を下り(不動坂は現在では動坂と呼ばれている)不動坂下〈G〉に至った。見上げると快晴で、西の空は白い雲が浮かび水のようだった。




        (写真2:天祖神社裏門)

 田もみな刈鴈声絶す、日暮里へかかり崖上より北東を望む、筑峯晴色愛すへし、水茶屋に休む、
 勝手解釈・・・
行く道沿いの田圃は既に稲刈りが終わり、鴈の姿はなかった。日暮里の高台に立ち北東の方を望むと晴天をバックに筑波山が美しい。水茶屋で一服した。

 解釈はそこまでとし、さて問題は、不動坂下からどの様な道を歩いて日暮里に至ったかだ。そこは記述がないから想像する他はないが、私は江戸東京重ね地図をも用い、この道を通ったのではないかと推測し、昨日の朝その道を探しに出かけた。

 下の地図で私はA(不動坂下)→B(谷田川暗渠)→C→D(与楽寺)→E→F→G→H(浄光寺)と回った。現在の道路とは若干異なってはいるものの大筋は変わりない。B→Cは田端へ通じるバス道路ではなく、北側の細い道を行く。D→Eは狭くて細い道で、現在の道路の何処かは分かりずらかった。D地点が与楽寺。E→Fはほぼ国道457号線。F→Gは現在の”間の坂”でここから上野台地へと上った。一行はGそばの諏方神社境内で筑波山を眺め、水茶屋で一服したと思われる。(広重の「名所江戸百景 日暮里諏訪の台」には茶屋が描かれている)
 昨日の朝6時半ここでは30人ほどでラジオ体操が行われていて、私も参加した。