マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『宴遊日記』に出合う(その2)

2016年07月11日 | 読書

 『宴遊日記』の著者柳沢信鴻(俳号:米翁)は1724(享保9)年、大和郡山で柳沢吉里の次男として生まれた。吉保の孫にあたる。初代藩主吉里の死去により、1745(延享2)年二代目藩主となり、以来28年間藩政に携わったが、1773(安永2)年藩政を嗣子保光に譲り、江戸染井の別宅に移ってきた。
 これ以降、米翁は俳諧・読書・物見・観劇・園遊など悠々自適な趣味の生活を送った、という。羨ましい限りの生活である。病気がちであったことを表向きの理由として、さっさと致仕を辞退し隠居生活に逃げ込んだように見える。この間の日記が『宴遊日記』で、1785(天明5)年剃髪後は『松鶴日記』を、没する年まで書き続けた。享年69歳。

 私はまだ数ページをめくったに過ぎないが、以下『庶民文化史料』の概説を簡単に紹介する。
 その日記には実に様々なことが記されている。その中でも俳諧へは、この13年間、俳諧関係の記事の記されていない日はほとんどないほどの傾倒ぶりだった。 展示コーナーには安永4年元日の日記が紹介され「・・・日記の各所に詠草がちりばめられ、とりわけ年頭には必ず数点の句や歌が記される。この日も気どらない、率直な歌を詠み、さらに1日前に当たる大晦日の夜に詠んだ『年籠百韻』を早くも仲間内に配るなど文芸への素養の深さがわかる」と書かれている。
 米翁は稀に見る読書家でもあった。読書の範囲は儒学・漢学・国学から源氏物語などの日本の古典にまで及び、時に11冊のスピードで浄瑠璃正本を読破していった。

 『日記』には江戸庶民生活史に関するなまなましい証言を多々含んでいる。出掛けた場所は、浅草観音・湯島聖廟・雑司ヶ谷鬼子母神・各稲荷や諸寺への参詣、開帳・燈籠見物、花見、菊見、摘草などの近郊散策、堺町・葺屋町・木挽町の江戸三座への芝居見物などなど。これら外出の記録は格別に詳細を極め、その日の天候の様子、通った道筋、途中で見聞したさまざまなこと、買ったもの、茶屋での食事内容、帰宅途次の時刻にいたるまでがいちいち克明に記され、これらを読むと、当時の江戸の様子が具体的にわかる。

 米翁自身芝居好きであったが、その感化か、染井の別邸に出入りする人たち(それは数えきれないほど多数)はいずれも芝居好きばかりであり、婢・半下を雇うにも各種の浄瑠璃や踊りが上手にできることを第一条件としていたらしい。
 展示コーナーには「歌舞伎好きで芝居小屋に頻繁に出掛けるだけでなく芝居好きが高じて自ら演じるようにもなった。安永249日の日記には奉公人の娘たちのオーディションを実施し、上・中・下の評価を下した。翌々日の11日にもオーディションが行われ、その熱中ぶりがうかがえある」とあった。こういった場面でも実に面白いご隠居さんだったことが判る。

 私達は3年前にも大和郡山を訪ね、城跡を散策した。見事な石垣と堀に感嘆したが、柳沢文庫は見学しなかった。このことが悔やまれてならない。

 
        (大和郡山城跡 追手門)                 (大和郡山城跡の石垣と堀)


『宴遊日記』に出合う(その1)

2016年07月09日 | 読書

 6月下旬のとある日、妻が借りた本の返却に台東区立図書館「谷中分室」へ出掛けた折りのこと。同じ階の展示室を覗くと「お殿様の散歩道」と題して『宴遊日記』なるものが紹介されていた。その展示コーナーを隅から隅まで熟読すると、お殿様とは六義園に隠居した大和郡山二代藩主柳沢信鴻(のぶとき)のことで、『宴遊日記』とは彼が1773(安永2)年に筆を取り、1785(天明5年)に剃髪するまでの13年間毎日書き続けた日記のことだった。
 少し先走るがその日記、1977(昭和52)年に藝能史研究会によって翻刻され、三一書房より『日本庶民文化資料集成』として出版されていて、私達はそのことを知って直ぐに文京区の図書館から借りて来た。それによれば、「・・・信鴻は学問・文学・芸術・芸能・天候・樹木・食物など日常生活の周辺にあるさまざまな事象に対する関心を持ち、それらに対する並々ならぬ情熱を注ぎ・・・(中略)、その行動の中には“何でも見てやろう”、“何でもしてやろう”といった、自由闊達にして積極的な姿勢があった」と序文に記されている。例えば、歌舞伎見物には100回以上も出かけたそうな。

 台東区が展示のテーマとして取り上げたのは台東区への散歩。日記に多く登場するのが六義園を起点として江戸市中への外出記事。その多くが浅草や上野広小路など台東区の繁華街へのお散歩。そこまでの道筋や地名も散見するとして、日記を詳しく読み解いた上での展示だった。
 私が一番興味を抱いたのは、日記文のみならず、地図まで用いての紹介のなかで米翁(信鴻はこう号した。以下米翁と記す)が例えば、六義園から本郷通りを駕籠や馬に乗ってではなく全て歩いて上野に至ったり、上野台地から諏訪坂を下って根岸に至ったりしたことだ。芋坂を下ろうとして、急な為に下れず寛永寺内の坂を下ったとも紹介されていた。知的好奇心をそそられ、行動意欲に火が付くような展示であり、『宴遊日記』だった。



 そこでオンライン検索し本の在処を知り、借りて来た『・・庶民文化・・・』は上下2段組み940ページの大作。宴遊日記巻1上下~巻13上下まで26巻が収められていて、しかも現代文ではない。これはとてもではないが、私が読み進められるものではないと思ったが、私以上に妻の興味を惹いたらしく、早速読み始めていた。私としては”助手が予め読み”していると勝手に解釈して、妻からの知識を仕入れつつ、幾つかの話題を綴ってみたい。
 13年間毎日日記を付けたとのくだりでは、毎日の様にブログを更新している『轟亭の小人閑居日記』を連想し、音無川沿いを歩き、「御行の松」を訪れたであろう記事では、おこがましくも自らを重ね合わせた。

 
    (上写真中、山伏松を御行の松と推定している)                  (安永4年2月6日のこと)


帯広新発見・再発見

2016年07月07日 | 身辺雑記

 息子夫婦が住むところは、実は帯広市ではなくて、十勝川を挟んで帯広市の北側に位置する音更(おとふけ)町である。その両方を含む地域表現に、行政単位ではないが十勝地方という表現がある。十勝との呼び名はネイムバリューが高く、「十勝地方は食物の自給率1600%」とか「十勝産の小豆」などと言われる。私達が到着した空港は「十勝帯広空港」。それでも、私には一番馴染み深い表現は帯広だ。
 今回のブログは、今度の旅行で新発見・再発見した帯広について書いておきたい。それは時に音更であったり十勝だったりするのだが、その辺は上に書いた理由により”あいまい”表現であることをご容赦願いたい。

 ()「帯広地方卸売市場」・・・息子から「ホテルの朝食をキャンセルしても良いならここを案内したい」と言われた市場。新鮮な魚介類や野菜などの食料品が豊富に品揃されていて、2階食堂は氷見や早川の食堂を思い出させるような建物構造で、安くて新鮮な定食が多数用意されている。私達は20食限定の朝定食(600円)にありついた。息子が是非と言った意味が良く分かった。豊富な魚介類の乗ったチラシ丼。1階の売り場で妻は、片栗粉・白花豆・豚丼のタレ(4個)・野菜スープなど5000円もの衝動買いをしていた


     (2階から市場を見下ろす)

 
(2)十勝川温泉は「モール温泉」・・・子育を一時的にサボって、ヤヨイちゃんのお父さんと十勝川温泉へ出掛けた。お父さんは、昨年ひとりでスペインに出掛け、2ヶ月かけて巡礼の道を歩いたツワモノ。フットワークの軽いのが私との共通項。話が合うのだ。
 植物起源の有機物を含むモール温泉は日本には数多くない。帯広駅からバス30分程度の、十勝川温泉は全てがモール温泉。宿泊した十勝ガーデンズホテルもモール温泉。やや薄茶色の湯だが、入浴後肌がスベスベと感じられる。これが非常に心地よい。露天からは滔々と流れる十勝川が一望のもと。
 帯広市内の銭湯の多くはモール温泉が湧出するとのこと。次回は市内の銭湯に浸かってみたい。(写真:入浴した観月荘の風呂から十勝川を望む)


 
(3)菓子の町帯広には洋菓子の名店が多い。その1・2を争うのが六花亭と柳月。今回は全て六花亭を利用した。「十勝強飯」(700円)は白花豆、大豆、小豆、金時豆、黒豆、枝豆など十勝産の数種類の豆が炊き込まれていて、ヘルシーで美味な定食に仕上がっていた。
   
感心したことがあった。一時席を外し自宅に戻った息子を待って、3人の爺婆でここで2時間余りを過ごしたが、何度も水を補充に来てくれ、笑顔でコーヒーは4回も入れ直してくれた。地元の就職先人気ナンバーワンだけのことはあると再認識。職場などへのお土産は、ここの人気ナンバーワン「マルセイバターサンド」にした。(写真:十勝強飯)

 
(4)藤丸百貨店・・・道東では多くのデパートは閉店に追い込まれたが、唯一生残ったのが帯広市にある藤丸デパート。店舗周辺の商店街と連携して夏に歩行者天国を主催したり、十勝ブランド商品の発掘を行うなどの地域密着の営業戦略で、「藤丸さん」との愛称で地元民の圧倒的支持を得ている。釧路のデパートが閉店となった折りは買い物ツアーバスという長距離の送迎バスを運行したところ、応募者が殺到し、結局350人を送迎したとの、嘘の様なホンとの話もあるほどだ。(写真:藤丸デパート外観)

 何はともあれ、帯広は寒さと雪の冬を除けば生活しやすい街だ。


帯広から帰って

2016年07月05日 | 身辺雑記

 昨夜、私一人帯広から帰京した。
 今回の帯広行の目的は孫の顔を見る事と息子夫婦の家事手伝いだったが、家事・育児の手伝いは5日以降も必要と知り、妻は9日まで帰宅を延期した。私は家事手伝いには殆ど役に立たなかったが、孫娘の顔だけはしっかり見て来た。

 71日(金)、715分羽田発の「AIR DO」は予定より遅れて7時30分に離陸ながら、定刻850分には十勝帯広空港着。曇りとの予報は外れ、梅雨のないと言われる北海道の、帯広は快晴だった。ここでヤヨイちゃんのお父さんと合流。910発のバスは945分には帯広バスターミナル着。その真ん前の十勝ガーデンズホテルには羽田から2時間40分で到着。自宅からは4時間30分。このルートの最速を実感した。迎えに来てくれた息子へはまずは“オメデトウ”と声をかけた。
 
病院での面会は14時からだった。結局帝王切開となったヤヨイちゃんへは“オメデトウ。お疲れ様”と声を掛けた。人は、初孫の顔を見ただけでおじいやおばあになったと実感出来るとか聞いていたが、私にはその感覚は湧いて来なかった。血族意識の乏しい人間なのかも知れない。しかし、あの世話を焼かせてくれた息子が、生まれて8日目の子供を抱っこし、オムツを替えている姿を見たとき、私もおじいちゃんになったのだとの思いがはじめて湧いて来た。生れ来る孫への思いは、“五体満足に”だけだったが、その姿を見て兎も角も安心した。
 夜、ヤヨイちゃんのお父さんと我が家3人は「大庄水産」でお祝いの宴。交わす会話も無事出産の話に収束していった。




 72日に母子退院。いよいよ子育てが本格的にスタートした。母乳だけでは足らない分は粉ミルクをお湯に溶かして補うわけだが、容器やその消毒など、37年も前の子育てゆえ、妻も私も昔を思い出しながらの育児手伝い。最近孫育てを経験していたヤヨイちゃんのお父さんの知識と助力もあって、二人は子供に栄養を与えていた。 
 私の出番は74日にやって来た。名前を用紙に書くこと。文字書は苦手なのだが、息子の指名とあってはしょうがない。「命名の紙」に生年月日を記入し、最後に長女の名前を書いて役割を終えた。                                 
   

 息子夫婦は多分仕事を続けながらの、共働きの育児となるだろう。この地に知り合いは少ない。ヤヨイちゃんのお父さんと話したことは、少しでも二人の手助けや孫の顔を見に同時に帯広にやって来ましょうという事だった。旅行先が帯広に偏るは止むを得ないと思いつつ、次回は秋かとひとりごちて、帯広空港を後にした。