たった今気づいたのだが、インターネットニュースで、ある種のゲームは外科医の能力を高める、という記事があった。アメリカでの研究結果だそうだ。
僕の情報源はもっぱらインターネットである。テレビはまったく信用しない。一番インパクトが強い分、脚色したい誘惑に打ち克つのが困難らしい。
新聞は、あの3流小説のような文体を見ただけでも、だめである。
ネットニュースの良いところは、ほほう、と思ったニュースの関連から、反証や確認がたちどころにできる点だ。
日本では、ゲームは目の敵にされている。僕自身はまったくしないけれど、どうも目の敵にしている人の言い分には、素直にうなづけない。
だいぶ前に「ゲーム脳」という言葉を発明した「学者」がいた。ゲームをしすぎると脳が壊れる、という説である。この説は、今ではあらゆる脳科学者により否定されている。いわゆるとんでも本、あるいは似非科学と折り紙つきなのだ。それにもかかわらず、なにか事が持ち上がるたびに「証拠」として取り上げられる。こういう学説があるとおり、というわけだ。
たとえばゲームをしすぎると明らかに学力の低下が見られるという。あたりまえだ。勉強をする時間がなくなるのだから。犬と遊びすぎると明らかな学力の低下が見られる、という研究結果だって出るだろう。犬と遊ぶのは学力の低下を招くという文科省の勧告が出たりしてね。麻雀をしすぎるとピアノが下手になるというデータだってあるぞ。
また、ゲームをしているときの脳波には異常が見られる、といわれる。これも当然だろう。何かに集中したときの脳波が異常を示すのはそんなに珍しいことではないだろう。ピアノを弾いているときの脳波も、異常だそうだから。
と、ここで僕は考え込んでしまう。脳を破壊するというのは本当かも知れん。僕の知るあのピアニスト、このピアニスト、ああ壊れている。
冗談はさておき、ゲーム脳という否定的な、刺激的な言葉はいったん使われ始めると、何やらいかにもそれらしくきこえてくるようだ。ゲームを目の敵にする人たちは、その「ゲーム脳」がとっくに否定されている、もしくは甚だしく疑問視されていることを知ってか知らずか、無視を決め込む。だって私はそう思うのだから、といった勢いだ。
ではそう思うのは、つまりゲームは脳に悪いのではないか、と思うのは間違いか?そうとばかりも言えない。直感を持つために、なにも科学にお墨付きをいただく必要はない。19世紀の詩人達は、人間の文明の行き詰まりを直感した。こうした直感を働かせること自体は、僕らにとってまた、大切なことだ。僕はゲームに関して、そういう否定的な気持ちはないけれどね。
ただ、その直感を規則という形で押し付けることがいけないのだ。ゲームがそんなに悪影響をもたらせると思うならば、自分や家族にさせなければよいだけの話だ。
残酷なゲームでも事情は同じさ。子供にさせたくない人はさせない、それだけのこと。したって構わない、僕にはそうとしか思えない。アラン・ポーの作品や、ホームズの作品、いやあらゆるミステリー小説では殺人が起こり、人の憎悪が語られる。カステラがなくなった、という話でミステリー小説が成立するかい。我が家ではそういった事件が頻発し、犯人探しに躍起になっているけれど。まあ、犯人は僕で、自首するんだが。
それとも文章は映像に比べて、神経を刺激する力が弱いのであろうか?本来は逆ではないか。これほど映画やアニメやゲームが広まっても、高級から低級に至る小説は減らないではないか。このことは読んでいる張本人がよく知っていることだ。もしもゲームが規制されねばならぬならば、多くの小説類も同様の規制を受けなければならない。
それにもかかわらず、何か事件が起こると規制の対象として語られるのはゲームやアニメなのだ。言い換えれば、言葉のもつ強い影響力の下、自由な思考が禁じられた結果である。言葉は、かくも強烈な力を有するものでもある。
繰り返すが、僕自身はゲームに関心がない。おっと、麻雀をゲームと表現したことがあったっけ。
それでも最近は青少年の犯罪が増えているではないか、と身を震わせている人へ。警察庁のデータを見てごらんなさい。青少年の重大犯罪が最も多かったのは、なんと昭和33年で、今はその当時の1/7に激減している。
また、現代日本の重大犯罪を犯す世代は50代で、これは世界的に見て特異な例だそうだ。この「異常な」現象も、何らかの原因はあるのだろうが、短兵急にイメージだけでこれ、と特定するのは危険だろう。
昭和33年に少年だった人が今や5,60代である、ゲームをしなかったため、ストレスを発散できなかったからだ、という学説が出てきたらどうする?
僕の情報源はもっぱらインターネットである。テレビはまったく信用しない。一番インパクトが強い分、脚色したい誘惑に打ち克つのが困難らしい。
新聞は、あの3流小説のような文体を見ただけでも、だめである。
ネットニュースの良いところは、ほほう、と思ったニュースの関連から、反証や確認がたちどころにできる点だ。
日本では、ゲームは目の敵にされている。僕自身はまったくしないけれど、どうも目の敵にしている人の言い分には、素直にうなづけない。
だいぶ前に「ゲーム脳」という言葉を発明した「学者」がいた。ゲームをしすぎると脳が壊れる、という説である。この説は、今ではあらゆる脳科学者により否定されている。いわゆるとんでも本、あるいは似非科学と折り紙つきなのだ。それにもかかわらず、なにか事が持ち上がるたびに「証拠」として取り上げられる。こういう学説があるとおり、というわけだ。
たとえばゲームをしすぎると明らかに学力の低下が見られるという。あたりまえだ。勉強をする時間がなくなるのだから。犬と遊びすぎると明らかな学力の低下が見られる、という研究結果だって出るだろう。犬と遊ぶのは学力の低下を招くという文科省の勧告が出たりしてね。麻雀をしすぎるとピアノが下手になるというデータだってあるぞ。
また、ゲームをしているときの脳波には異常が見られる、といわれる。これも当然だろう。何かに集中したときの脳波が異常を示すのはそんなに珍しいことではないだろう。ピアノを弾いているときの脳波も、異常だそうだから。
と、ここで僕は考え込んでしまう。脳を破壊するというのは本当かも知れん。僕の知るあのピアニスト、このピアニスト、ああ壊れている。
冗談はさておき、ゲーム脳という否定的な、刺激的な言葉はいったん使われ始めると、何やらいかにもそれらしくきこえてくるようだ。ゲームを目の敵にする人たちは、その「ゲーム脳」がとっくに否定されている、もしくは甚だしく疑問視されていることを知ってか知らずか、無視を決め込む。だって私はそう思うのだから、といった勢いだ。
ではそう思うのは、つまりゲームは脳に悪いのではないか、と思うのは間違いか?そうとばかりも言えない。直感を持つために、なにも科学にお墨付きをいただく必要はない。19世紀の詩人達は、人間の文明の行き詰まりを直感した。こうした直感を働かせること自体は、僕らにとってまた、大切なことだ。僕はゲームに関して、そういう否定的な気持ちはないけれどね。
ただ、その直感を規則という形で押し付けることがいけないのだ。ゲームがそんなに悪影響をもたらせると思うならば、自分や家族にさせなければよいだけの話だ。
残酷なゲームでも事情は同じさ。子供にさせたくない人はさせない、それだけのこと。したって構わない、僕にはそうとしか思えない。アラン・ポーの作品や、ホームズの作品、いやあらゆるミステリー小説では殺人が起こり、人の憎悪が語られる。カステラがなくなった、という話でミステリー小説が成立するかい。我が家ではそういった事件が頻発し、犯人探しに躍起になっているけれど。まあ、犯人は僕で、自首するんだが。
それとも文章は映像に比べて、神経を刺激する力が弱いのであろうか?本来は逆ではないか。これほど映画やアニメやゲームが広まっても、高級から低級に至る小説は減らないではないか。このことは読んでいる張本人がよく知っていることだ。もしもゲームが規制されねばならぬならば、多くの小説類も同様の規制を受けなければならない。
それにもかかわらず、何か事件が起こると規制の対象として語られるのはゲームやアニメなのだ。言い換えれば、言葉のもつ強い影響力の下、自由な思考が禁じられた結果である。言葉は、かくも強烈な力を有するものでもある。
繰り返すが、僕自身はゲームに関心がない。おっと、麻雀をゲームと表現したことがあったっけ。
それでも最近は青少年の犯罪が増えているではないか、と身を震わせている人へ。警察庁のデータを見てごらんなさい。青少年の重大犯罪が最も多かったのは、なんと昭和33年で、今はその当時の1/7に激減している。
また、現代日本の重大犯罪を犯す世代は50代で、これは世界的に見て特異な例だそうだ。この「異常な」現象も、何らかの原因はあるのだろうが、短兵急にイメージだけでこれ、と特定するのは危険だろう。
昭和33年に少年だった人が今や5,60代である、ゲームをしなかったため、ストレスを発散できなかったからだ、という学説が出てきたらどうする?