自分のことを棚に上げて言うのだが。
日本の音楽家、正確にいえばピアニストはものを考えて表現する能力に欠けすぎている。僕は大学に入ってすぐそう思った。
それからずいぶん歳月は流れたが、似たようなものだ。学力が上がったのか下がったのか、そんなことは知らないけれど、自分の頭で考えて、自分の言葉で表現する力はあまりない。
まず、なぜだろうと問わない。所謂秀才ほどそうした傾向にある。いちいちなぜだろうと問いかけていたら秀才になる暇がないのだろうか。
そのへんを問い直すのはまたの機会に譲っておこう。欠点に気づきながら手を拱いているのもしゃくで、若い生徒何人かに、新聞評についての感想というか、レポートを書かせたことがある。
何人かは真剣に取り組んでくれて、力作があり、とても嬉しかった。
その中のひとつに、作曲家の書いた楽譜と演奏について、たいへん面白い例を使って述べたものがあった。「ドラエモン」を例に出してあって、意表を突かれたのだ。こういうのは好きだな。
藤子不二雄さんの「ドラエモン」は彼らの代表作だろう。今の子供たちにも人気があるのではないか。
これは元来は少年コミックの連載だろうと思うが、テレビアニメとしても地位を確保した。主人公のドラエモンを声優の大山のぶ代さんが受け持ってはじめて試写会があったとき、藤子不二雄さんが臨席した。
藤子不二雄というのは我孫子さんと藤本さん二人の漫画家の合作時のペンネームだったが、デビューした当初は同じ作風だったのに、次第に差が表れてきたので藤子不二雄A、藤子不二雄Bとして単独で書くようになったのだ。どちらがAでどちらがBなんだろう?
臨席していたのがどちらか分からず、もしかすると二人とも招かれていたのかもしれず、ここの処は生徒のレポートに拠るために確認できないけれど。
さてそんなことは重要ではない。ドラエモンを描いた方の藤子不二雄さんは(と書くとなぜ藤子不二雄さんについて少し詳しく書いたかがお分かりでしょう、知らないとなんのことやら通じなくなります)大山のぶ代さんに「ドラエモンてこんな声をしていたんですねえ」と言ったそうだ。
作者でさえも、ドラエモンの声を知っていなかった。これは考えてみれば当たり前のことだ。
「魔笛」のパパゲーノは世の中の女の子がぜんぶ自分のものだったら、と無邪気にうたう。この馬鹿者を人は笑うが、実のところ、ほとんどすべての男はそう思っているわけだ。それはさておいて、彼にしたところで、自分のものになった女の子の声を想像することはできないのである。おもしろいことではないか。
声に限ったことではない。神様といえば、人間と同じ姿をしている。ただ、ずっと立派な様子だけれど。僕たちはまったく知らないものを空想することはできないのだ。
ある作曲家が、自分の曲が初演されるとき、どんな響きになるのだろうと楽しみと緊張で胸がいっぱいになる、と言っていた。そうなのだろうな。つまり作曲者は演奏されるまでは、自作といえど本当に知っているといえない状態にある。彼が知っているのは、家に例えれば設計図であって、家自体ではない、とでもいおうか。音楽評論家の遠山一行さんが、作曲家は果たして音楽家であろうか、という逆説を持ち出す理由である。
作品は演奏されてはじめて作品になる。作曲者ですら、ドラエモンの作者同様、本当の姿を知らない。演奏家は芸術家であるか、そんなご大層な質問は要らない。どちらでも一向に構わないさ。作品を演奏する人が必要で、僕はその作品を好きだから演奏するし、同じような人を育てようと力を傾ける。
日本の音楽家、正確にいえばピアニストはものを考えて表現する能力に欠けすぎている。僕は大学に入ってすぐそう思った。
それからずいぶん歳月は流れたが、似たようなものだ。学力が上がったのか下がったのか、そんなことは知らないけれど、自分の頭で考えて、自分の言葉で表現する力はあまりない。
まず、なぜだろうと問わない。所謂秀才ほどそうした傾向にある。いちいちなぜだろうと問いかけていたら秀才になる暇がないのだろうか。
そのへんを問い直すのはまたの機会に譲っておこう。欠点に気づきながら手を拱いているのもしゃくで、若い生徒何人かに、新聞評についての感想というか、レポートを書かせたことがある。
何人かは真剣に取り組んでくれて、力作があり、とても嬉しかった。
その中のひとつに、作曲家の書いた楽譜と演奏について、たいへん面白い例を使って述べたものがあった。「ドラエモン」を例に出してあって、意表を突かれたのだ。こういうのは好きだな。
藤子不二雄さんの「ドラエモン」は彼らの代表作だろう。今の子供たちにも人気があるのではないか。
これは元来は少年コミックの連載だろうと思うが、テレビアニメとしても地位を確保した。主人公のドラエモンを声優の大山のぶ代さんが受け持ってはじめて試写会があったとき、藤子不二雄さんが臨席した。
藤子不二雄というのは我孫子さんと藤本さん二人の漫画家の合作時のペンネームだったが、デビューした当初は同じ作風だったのに、次第に差が表れてきたので藤子不二雄A、藤子不二雄Bとして単独で書くようになったのだ。どちらがAでどちらがBなんだろう?
臨席していたのがどちらか分からず、もしかすると二人とも招かれていたのかもしれず、ここの処は生徒のレポートに拠るために確認できないけれど。
さてそんなことは重要ではない。ドラエモンを描いた方の藤子不二雄さんは(と書くとなぜ藤子不二雄さんについて少し詳しく書いたかがお分かりでしょう、知らないとなんのことやら通じなくなります)大山のぶ代さんに「ドラエモンてこんな声をしていたんですねえ」と言ったそうだ。
作者でさえも、ドラエモンの声を知っていなかった。これは考えてみれば当たり前のことだ。
「魔笛」のパパゲーノは世の中の女の子がぜんぶ自分のものだったら、と無邪気にうたう。この馬鹿者を人は笑うが、実のところ、ほとんどすべての男はそう思っているわけだ。それはさておいて、彼にしたところで、自分のものになった女の子の声を想像することはできないのである。おもしろいことではないか。
声に限ったことではない。神様といえば、人間と同じ姿をしている。ただ、ずっと立派な様子だけれど。僕たちはまったく知らないものを空想することはできないのだ。
ある作曲家が、自分の曲が初演されるとき、どんな響きになるのだろうと楽しみと緊張で胸がいっぱいになる、と言っていた。そうなのだろうな。つまり作曲者は演奏されるまでは、自作といえど本当に知っているといえない状態にある。彼が知っているのは、家に例えれば設計図であって、家自体ではない、とでもいおうか。音楽評論家の遠山一行さんが、作曲家は果たして音楽家であろうか、という逆説を持ち出す理由である。
作品は演奏されてはじめて作品になる。作曲者ですら、ドラエモンの作者同様、本当の姿を知らない。演奏家は芸術家であるか、そんなご大層な質問は要らない。どちらでも一向に構わないさ。作品を演奏する人が必要で、僕はその作品を好きだから演奏するし、同じような人を育てようと力を傾ける。