季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

真剣

2008年09月08日 | スポーツ
またぞろ、オリンピックのメダリストのドーピング違反が発覚し始めている。日本の選手でドーピングに手を染める人が少ないらしいのはよく言われる。

僕もおそらく今のところはそうではないかと思っている。

その理由を色々な人が憶測している。日本人はアンフェアなことが嫌いなのだ、というのもあった。それはたちどころに否定されるであろう。政治家を見よ。役人を見よ。教員採用試験を見よ。接待漬けの社会を見よ。みよみよみよ、と力のないヒヨコのさえずりではないか。

勝負というものに対して、一種の潔さを尊いとする血脈はあるかもしれないな。

真剣という言葉はそんなに古くからあるのではないだろう。江戸時代、宮本武蔵らが果し合いをしていたころに出来た言葉ではなかろうか。

例によって素人の憶測、空想の楽しみにふけっているだけだ。詳しく真実を知っている人は、ぜひコメント欄にご教示ください。

武士は徳川の世になって、基本的には仕事がなくなった。戦うのが本分であるから。身分だけは最上位に保証され、僕たちはひがみ根性から、結構なことだ、羨ましい限りさ、と思いがちであるが、人間はそう簡単な生き物ではなかった。

自分たちが生きている理由は何か、次第にそう問いかける武士が増えたのである。よく何十億も籤で当たった人が事業を始めるでしょう。当たっていない僕たちは「なぜそんな無駄をするのだろう、利子だけで遊んで暮らせるのに」と訝しがる。でも当たってみたらきっと分かる。することがない、というのは拷問に近いのだ。僕もそれを本当に知りたいから、なんとか3億円くらい当たりたいと願う。

江戸の武士たちは、生きる意味を模索した。それが武士道という言葉を生み出した。今日あまりに簡単に使われているように、腹を掻っ切る潔さという簡単なものではないのである。

たしかに葉隠れには、死ぬことと見つけたり、とある。しかし、そこに至る思考を辿らず、単なるキャッチフレーズに貶めているのはまったくいただけない。

そういった思考は伊藤仁斎、荻生徂徠などの天才に繋がっていくのだ。因みに演奏する人にとって、この人たちの成し遂げたことは大変参考になると僕は思っている。

他方、武士本来の武術も鍛錬を怠るわけにはいかない。各地に剣道場が出来、稽古に励んだのだろう。もちろん怠け者も多かったことだろうね。

道場ではもちろん竹刀が使われていたから、いかに厳しい稽古であっても、勝負はゲームに近いものにならざるを得なかったと想像する。「いたたた、ウーム、もう一本(リポビタンDではないよ)。今度こそ、しかし、おぬし腕を上げたな」「ふふん、返り討ちにしてやろうかい」

なんだか調子に乗って、安手の時代劇を見すぎたような感じだな。やめておく。

でも、戯画化してはいるが、およそこんな風だったはずだ。それに飽き足らぬ思いを持つ侍たちが大勢出てきた。竹刀で戦うから、負けても「もう一本」と叫ぶだけでことが足りる。こんなことで剣の道を究めることが出来るはずがない。本物の刀で試合(仕合い)をすれば、油断や慢心はたちどころに命を落とす結果を招く。

突拍子もないアイデアを出したものだ。仮に江戸時代にオリンピックがあって剣道が種目に入っていたならば、このようなアイデアは出てこなかったのではないか。道を究めようと志す者は金メダルを目指せばよいのだからな。武蔵は金、小次郎は銀、塚原朴伝は銅なんていう結果になったかもしれない。

人間という動物は、本気で何かをすることに快感を覚えるのだろうか?人より0.01秒速いだけのことに興奮し、誰より大きな筋肉を有することに優越感を持つものがいて、そのためには健康を損ねることも厭わぬ。

本物の剣、真剣。この文字を眺めていると、いろいろ取りとめない空想が浮かぶ。
金メダル・・・貴金属。あまり空想力を刺激しないなあ。そう思いませんか。