この題名が検索にかかってさ迷い込んだ方にはお気の毒である。勿論まったく無関係ではない。
コルトー版を推奨する旨はすでに書いた。この版による前奏曲集の興味ある点は、すべての曲に題名が与えられているところにもある。もっとも、24曲すべてに思わずうなるような題名を与えるのは不可能だから、多くは平凡な連想からなる。
たとえば3番のト長調が「小川のせせらぎ」となっているのは、別段異議を唱える気持ちにもならないけれど、はたと手を打つこともない。小学生にだって思いつく。
しかし、どれもこれもはたと手を打つ題にしようとすれば、奇を衒うことになりかねないから、平凡な題が混ざるのはよしとした方が無難だ。
もっとも意表をついて、しかも真実味があるものはと問われれば、躊躇せずに15番変ニ長調を挙げる。通常「雨だれ」と呼ばれている曲だ。なお、僕はフランス語は一言も理解しないので、日本語版の八田惇さんの訳にしたがう。
「しかし死はそこに来ている。その闇の中に・・・」
これは実に適切な、コルトー以外の人にはできなかった、発想である。ひとつだけ八田さんに注文しておきたいのは、日本語が、コルトーのテンションの高さを充分に伝え切っていないと感じることだ。ここは、たとえ意訳になってもひと工夫してもらいたかった。そこに来ている、なんて宅配ピザみたいじゃないか。
たとえば「しかし死はすぐ傍らに潜んでいる、その闇の中に・・・」とか。
24番ニ短調も「血と、快楽と、死」となっていて、間違いではないだろうが、これでは3点まとめていくら、といった感じだ。テレビショッピングで「ネックレスとイヤリングと指輪3点で驚きのお値段」とやっているね、あれに似ていないですか?僕なら「血、快楽、そして死」とするなあ。もっとも、テレビショッピングこそ「ネックレス、イヤリング、そして指輪もお付けします」と叫んでいるのだが。でも「血、快楽、そして死」から滑稽な感じはしないと思うね。
ちょいとしたことで様相ががらりと変わる。言葉というのは面白いなあ。役人が法案を骨抜きにしようと、句読点ひとつにもこだわるでしょう、あれもイライラせずに面白がればよいのかな。
2番のイ短調は長い間評判が良くなかったそうだが、ここでのコルトーの題もなかなか良い。題にしては長く、むしろこの曲への随想とでも言っておいた方が良いけれど。「悲痛な瞑想、人気のない海、遠く彼方へ・・・」
ここまで自分の心象風景(宮沢賢治風に言えば)に寄りかかることを現代人はためらうだろう。
でも、曲目解説やレッスン、CDのジャケット等を見ればわかる。どんな人でもある程度は曲から受ける印象について触れないわけにはいかない。
僕は理屈っぽく言うのはあまり好みではないから、急に断言調になるけれど、要するに皆臆病なのだ。私はこう感じる、と言い切るのをためらうのだ。
指揮者のチェリビダッケは「私はコルトーの所謂詩的なものは好みではない」と言ったけれど、僕は好みだな。チェリビダッケにしたところで、詩的表現そのものを非難したのではなかろう。だって彼のプローベでもその手の表現はままあるのだから。彼はただ、自分はコルトーとは違った感じ方をする、と言っただけだ。
でも、いくら力説しても足りないのが、この訳業の価値である。これがなければ、僕なぞはこれらの「題名」は知る由もなかった。まあ、最近ではいろいろな出版社が楽譜出版に精を出しているし、フランス語に堪能なピアニストは多いから、いずれ目にしただろうが。
と書いて、いや八田さんのおかげで助かった、と思うことがある。続きはまた。
コルトー版を推奨する旨はすでに書いた。この版による前奏曲集の興味ある点は、すべての曲に題名が与えられているところにもある。もっとも、24曲すべてに思わずうなるような題名を与えるのは不可能だから、多くは平凡な連想からなる。
たとえば3番のト長調が「小川のせせらぎ」となっているのは、別段異議を唱える気持ちにもならないけれど、はたと手を打つこともない。小学生にだって思いつく。
しかし、どれもこれもはたと手を打つ題にしようとすれば、奇を衒うことになりかねないから、平凡な題が混ざるのはよしとした方が無難だ。
もっとも意表をついて、しかも真実味があるものはと問われれば、躊躇せずに15番変ニ長調を挙げる。通常「雨だれ」と呼ばれている曲だ。なお、僕はフランス語は一言も理解しないので、日本語版の八田惇さんの訳にしたがう。
「しかし死はそこに来ている。その闇の中に・・・」
これは実に適切な、コルトー以外の人にはできなかった、発想である。ひとつだけ八田さんに注文しておきたいのは、日本語が、コルトーのテンションの高さを充分に伝え切っていないと感じることだ。ここは、たとえ意訳になってもひと工夫してもらいたかった。そこに来ている、なんて宅配ピザみたいじゃないか。
たとえば「しかし死はすぐ傍らに潜んでいる、その闇の中に・・・」とか。
24番ニ短調も「血と、快楽と、死」となっていて、間違いではないだろうが、これでは3点まとめていくら、といった感じだ。テレビショッピングで「ネックレスとイヤリングと指輪3点で驚きのお値段」とやっているね、あれに似ていないですか?僕なら「血、快楽、そして死」とするなあ。もっとも、テレビショッピングこそ「ネックレス、イヤリング、そして指輪もお付けします」と叫んでいるのだが。でも「血、快楽、そして死」から滑稽な感じはしないと思うね。
ちょいとしたことで様相ががらりと変わる。言葉というのは面白いなあ。役人が法案を骨抜きにしようと、句読点ひとつにもこだわるでしょう、あれもイライラせずに面白がればよいのかな。
2番のイ短調は長い間評判が良くなかったそうだが、ここでのコルトーの題もなかなか良い。題にしては長く、むしろこの曲への随想とでも言っておいた方が良いけれど。「悲痛な瞑想、人気のない海、遠く彼方へ・・・」
ここまで自分の心象風景(宮沢賢治風に言えば)に寄りかかることを現代人はためらうだろう。
でも、曲目解説やレッスン、CDのジャケット等を見ればわかる。どんな人でもある程度は曲から受ける印象について触れないわけにはいかない。
僕は理屈っぽく言うのはあまり好みではないから、急に断言調になるけれど、要するに皆臆病なのだ。私はこう感じる、と言い切るのをためらうのだ。
指揮者のチェリビダッケは「私はコルトーの所謂詩的なものは好みではない」と言ったけれど、僕は好みだな。チェリビダッケにしたところで、詩的表現そのものを非難したのではなかろう。だって彼のプローベでもその手の表現はままあるのだから。彼はただ、自分はコルトーとは違った感じ方をする、と言っただけだ。
でも、いくら力説しても足りないのが、この訳業の価値である。これがなければ、僕なぞはこれらの「題名」は知る由もなかった。まあ、最近ではいろいろな出版社が楽譜出版に精を出しているし、フランス語に堪能なピアニストは多いから、いずれ目にしただろうが。
と書いて、いや八田さんのおかげで助かった、と思うことがある。続きはまた。