時々サッカーの試合を観に行く。日本代表の試合の場合は日本チームを応援しに行くわけだが、国内リーグだと、なんとなく応援しているチームはあっても、のぼせるほどではないから、純粋にプレーを楽しむ。
野球に関心があった頃は結構後楽園や、今は無い川崎球場にも足を運んだ。
応援の風景も随分変わった。僕は今の応援スタイルにどうしても馴染めない。みんなが一斉にのべつ幕なしに歌って、というかね。
80年代に帰国して、色んなものがガラリと変わっていたのには驚かされたが、野球の応援もそのひとつだった。東京音頭というのに合せて、揃いの傘をゆする応援が定着したチームがあり、ここが一番目立った。
その昔僕が球場に足を運んでいた頃は、各人が勝手に声を上げていたのだ。外野席から外野手に野次を浴びせる。その選手の弱点なり、ちょっと痛いところを突いたりしてからかうのは日常茶飯事であった。選手のほうも、怒って客席のほうへ向かうそぶりをしてみせると、観客がどっと湧くような野蛮なものだった。
もっとも、そんなことは本当はどうでもよい。
僕は、今はもう無い、西鉄ライオンズのファンだったが、このチームが最後に大逆転で優勝した年のことをよく覚えている。夏場、驚異的な追い上げを見せていたころ、僕もラジオの前にへばりついていた。
相手ピッチャーが振りかぶる前、場内はしんと静まり返り、異様なまでの静寂が支配する。ピッチャーが投球動作にはいると、地鳴りのように歓声が湧き上がる。ほんとうに地鳴りとしか言いようがない、途轍もないクレッシェンドなのだ。アナウンサーの声など、まったく聞こえない。地鳴りはボールがピッチャーの指先から離れ、キャチャー目がけて飛んでいく時に最高潮に達する。
バッターが見逃す。審判のコールすら聞こえないが、どうやらボールらしい。すると地鳴りは潮が引くようにおさまり、しばしざわついた空気になる。そして再びしんと静まり返り、ピッチャーの投球動作に入るのを固唾をのんで見守る。同じことが何べんも何べんも繰り返されるのである。
音楽が音と静寂の組み合わせだとすれば、そのもっとも分かりやすい例がこの時の歓声だ。そして、それは毎試合ごとに繰り返されていたことを思えば、人々は一種の幸せな音楽的環境に生きていたといえる。
町で見かける音はどうだったのだろうか。それについてはっきりとした記憶はないのである。やはり騒音だらけだったのだろうか。
僕が街中の音をはっきり意識して記憶にとどめるようになったのは、9年ぶりに帰国した成田空港で、エスカレーターの頭上から「お足元にご注意ください。ベルトにつかまり・・・」というアナウンスがひっきりなしに降ってきて、やかましい、と感じたときからだ。注意されなくとも注意するさ。なんだってこんなに騒ぎ続けるのだ。
でも、学生のころも、山手線で傘などのお忘れ物にご注意ください、とアナウンスされる都度、うるさい、言われたって忘れるワイ、と思ったのだから、やはりうるさかったのかもしれない。どうなのだろう。町の様子を写真に残しておけば、目では確認できるが、ここでも音は記憶にない。
因みに僕の傘の平均使用回数は4,5回なのだ。ビニール傘の普及がどれほど有難いか!国民栄誉賞を開発者へ!
応援する人たちは、今では試合を応援しているのか、応援を熱演しているのか、傍からは区別が付かない。試合とまるで関係ないリズムであることは確かだ。
中東との試合を見ると、独特の、蛇使いのような音楽が終始流れていて、コーランだが、あれはやりにくかろうと思う。千夜一夜物語みたいに不思議な起伏を伴って、延々と続く。シュートを放つタイミングが取れないね、僕だったら。
同様に外国のチームが日本に来て試合をしたら、間断なく続く歌声?に惑わされてシュートを打てないのではなかろうか。その割にはピンチの連続だなあ。いっそ倣ってお経を唱えるとかね。間断なく鳴り響く木魚の音。フェイントひとつかけられまい。
僕はゲームの状況に応じた歓声が欲しいな。西鉄ライオンズの声援のようにはいかぬものだろうか。センタリングとともにウオーっとクレッシェンドして、シュート失敗で短調の和音になる。だれたパス回しの時にはシーンと静まり返って、選手の足音まで聞こえてさ。そしていきなりのフォルテッシモのブーイングなんて楽しいなあ。指揮は小澤征二さんで良い。
野球に関心があった頃は結構後楽園や、今は無い川崎球場にも足を運んだ。
応援の風景も随分変わった。僕は今の応援スタイルにどうしても馴染めない。みんなが一斉にのべつ幕なしに歌って、というかね。
80年代に帰国して、色んなものがガラリと変わっていたのには驚かされたが、野球の応援もそのひとつだった。東京音頭というのに合せて、揃いの傘をゆする応援が定着したチームがあり、ここが一番目立った。
その昔僕が球場に足を運んでいた頃は、各人が勝手に声を上げていたのだ。外野席から外野手に野次を浴びせる。その選手の弱点なり、ちょっと痛いところを突いたりしてからかうのは日常茶飯事であった。選手のほうも、怒って客席のほうへ向かうそぶりをしてみせると、観客がどっと湧くような野蛮なものだった。
もっとも、そんなことは本当はどうでもよい。
僕は、今はもう無い、西鉄ライオンズのファンだったが、このチームが最後に大逆転で優勝した年のことをよく覚えている。夏場、驚異的な追い上げを見せていたころ、僕もラジオの前にへばりついていた。
相手ピッチャーが振りかぶる前、場内はしんと静まり返り、異様なまでの静寂が支配する。ピッチャーが投球動作にはいると、地鳴りのように歓声が湧き上がる。ほんとうに地鳴りとしか言いようがない、途轍もないクレッシェンドなのだ。アナウンサーの声など、まったく聞こえない。地鳴りはボールがピッチャーの指先から離れ、キャチャー目がけて飛んでいく時に最高潮に達する。
バッターが見逃す。審判のコールすら聞こえないが、どうやらボールらしい。すると地鳴りは潮が引くようにおさまり、しばしざわついた空気になる。そして再びしんと静まり返り、ピッチャーの投球動作に入るのを固唾をのんで見守る。同じことが何べんも何べんも繰り返されるのである。
音楽が音と静寂の組み合わせだとすれば、そのもっとも分かりやすい例がこの時の歓声だ。そして、それは毎試合ごとに繰り返されていたことを思えば、人々は一種の幸せな音楽的環境に生きていたといえる。
町で見かける音はどうだったのだろうか。それについてはっきりとした記憶はないのである。やはり騒音だらけだったのだろうか。
僕が街中の音をはっきり意識して記憶にとどめるようになったのは、9年ぶりに帰国した成田空港で、エスカレーターの頭上から「お足元にご注意ください。ベルトにつかまり・・・」というアナウンスがひっきりなしに降ってきて、やかましい、と感じたときからだ。注意されなくとも注意するさ。なんだってこんなに騒ぎ続けるのだ。
でも、学生のころも、山手線で傘などのお忘れ物にご注意ください、とアナウンスされる都度、うるさい、言われたって忘れるワイ、と思ったのだから、やはりうるさかったのかもしれない。どうなのだろう。町の様子を写真に残しておけば、目では確認できるが、ここでも音は記憶にない。
因みに僕の傘の平均使用回数は4,5回なのだ。ビニール傘の普及がどれほど有難いか!国民栄誉賞を開発者へ!
応援する人たちは、今では試合を応援しているのか、応援を熱演しているのか、傍からは区別が付かない。試合とまるで関係ないリズムであることは確かだ。
中東との試合を見ると、独特の、蛇使いのような音楽が終始流れていて、コーランだが、あれはやりにくかろうと思う。千夜一夜物語みたいに不思議な起伏を伴って、延々と続く。シュートを放つタイミングが取れないね、僕だったら。
同様に外国のチームが日本に来て試合をしたら、間断なく続く歌声?に惑わされてシュートを打てないのではなかろうか。その割にはピンチの連続だなあ。いっそ倣ってお経を唱えるとかね。間断なく鳴り響く木魚の音。フェイントひとつかけられまい。
僕はゲームの状況に応じた歓声が欲しいな。西鉄ライオンズの声援のようにはいかぬものだろうか。センタリングとともにウオーっとクレッシェンドして、シュート失敗で短調の和音になる。だれたパス回しの時にはシーンと静まり返って、選手の足音まで聞こえてさ。そしていきなりのフォルテッシモのブーイングなんて楽しいなあ。指揮は小澤征二さんで良い。