今でもたいていの学校でウサギなどを飼育しているのだと思う。僕はこれを即刻止めてもらいたいと願っている。
僕はウサギに詳しい。昔から詳しい。小学校時分、銀座通りでだったか、売っていて買ったことがある。
若い人へ。銀座でコンクールや発表会があるとふらつくのが楽しみでね。でも、今と違って、ウサギを売っていたり、怪我を負った軍人が白い服を着て杖を突き、物乞いをしていたりでね。こんな昔話をすると、ああ僕もジジイになったなあとしみじみ思う。未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声だったっけ。本当だよなあ。
さて、家でウサギが跳ねるのを見て、僕は満足であった。数日後ウサギは死んだ。
今にして思えば、水を与えなかったのだ。可哀想に、どんなにのどが渇いたことだろう。当時、ウサギは水を飲むと死んでしまう、という俗説が流布していた。この俗説は今も残っている。子供の僕がそれを疑うのには幼稚すぎた。母親および父親が、ペットをもっと本気で大切にするべきだったのだ。いくら情報を集めることが困難な時代とはいえ。
僕が詳しいというのは、つまり、そのレベルということだ。
この不幸なウサギのことは僕は今でも思い出す。今、我が家には2匹、高齢になったウサギがいる。小さい種類で、両手にすっぽり入る。もっとも一匹はデブで、凶暴だから両手にすっぽりなんて可愛いことはないが。なにしろ餌を与えようとすると、早くくれと飛び掛ってくる。歯が鋭いから痛いのだ。この子達の水を飲む姿を見るたびに、死んだウサギを思い出す。
二匹のウサギは雄と雌だから、離して飼っている。ヒポナッチ級数というのはウサギ算というくらいで、ウサギの繁殖力は旺盛だ。しかも避妊手術が大変難しい。隔離するのが現実的な唯一の避妊方法である。
また、雌同士は良いが、雄同士だと噛みあいになって、耳くらいちぎれてしまう。歯は干草とか野菜を食べていても伸びてくるから検査が欠かせない。伸びると食欲がまったく無くなって、放っておくとすぐに死ぬ。伸びた歯は、麻酔をかけて削るしか方法がない。
こんなことを書くと「そんなに面倒なものか。では野生のウサギはどうやって歯が伸びるのを防いでいるのだ?医者にかからずにやっていっているではないか」という人が必ず出る。
簡単さ。次々に死んでいるのさ。だから旺盛な繁殖力があるのだ。
学校で何らかの動物を飼う理由は何か。子供達に情操教育を施そう、ということだろう。控えめに言っても、かなり怪しげな発想である。そんなに簡単に情緒が育まれるのなら誰も苦労しないね。
そもそも、動物が嫌いな人は情操面で問題があるというのだろうか。動物が苦手だという人だってたくさんいるのだ。まさかその人たちが人でなしと言うのではあるまい。
動物を飼っていると、たしかに癒される。それは僕が動物が好きだからだ。札束を見ていれば癒される人だって必ずいる。それもたくさんいる。僕?どちらか分からない。まず、それを知るために持ってみたいものだな。
動物好きな教師が、ぜひ子供たちにはこの気持ちを一緒に味わってもらいたい、と願うのは自然である。しかし、もしもそうであるならば、その教師が率先してウサギ小屋を掃除し、餌をあげ、ある時には獣医に連れて行くことをするべきだ。範を垂れるとはそういうことだろう。飼う以上、それをしない限り、子供は動物を物以下に扱うことしか覚えない。可愛い可愛いと都合よく抱き上げるばかりが動物を愛することではあるまい。その教師はとんでもなく忙しくなるだろうが、動物を通して情操を豊かにと願う以上、やりとげなければならない。
もうひとつ。動物が好きになれない子に、無理強いしないことだ。これは難しいぞ。動物好きは良い人だ、という馬鹿げた考えを捨てることだ。
序でに触れておくが、ウサギを扱える獣医は少ない。良心的な人ならば「自分はウサギは診られない、扱えない」と、専門医を紹介するくらいデリケートなのだ。ウサギを飼っている学校の教師たちの何人が知っているか、訊ねてみたい。
要するに発想が安直なのだ。その上、良いことに決まっていると信じて疑わないものだから、それを止めることすらできない。子供は知らぬ間に大人の怠惰を真似する。いつくしむ心、なんてお題目をいくら唱えても無駄なのである。
それくらいなら、何もしない方がよほどましだ。センチメントからは何も生じないだけではない。無感動が生じるのである。
僕はウサギに詳しい。昔から詳しい。小学校時分、銀座通りでだったか、売っていて買ったことがある。
若い人へ。銀座でコンクールや発表会があるとふらつくのが楽しみでね。でも、今と違って、ウサギを売っていたり、怪我を負った軍人が白い服を着て杖を突き、物乞いをしていたりでね。こんな昔話をすると、ああ僕もジジイになったなあとしみじみ思う。未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声だったっけ。本当だよなあ。
さて、家でウサギが跳ねるのを見て、僕は満足であった。数日後ウサギは死んだ。
今にして思えば、水を与えなかったのだ。可哀想に、どんなにのどが渇いたことだろう。当時、ウサギは水を飲むと死んでしまう、という俗説が流布していた。この俗説は今も残っている。子供の僕がそれを疑うのには幼稚すぎた。母親および父親が、ペットをもっと本気で大切にするべきだったのだ。いくら情報を集めることが困難な時代とはいえ。
僕が詳しいというのは、つまり、そのレベルということだ。
この不幸なウサギのことは僕は今でも思い出す。今、我が家には2匹、高齢になったウサギがいる。小さい種類で、両手にすっぽり入る。もっとも一匹はデブで、凶暴だから両手にすっぽりなんて可愛いことはないが。なにしろ餌を与えようとすると、早くくれと飛び掛ってくる。歯が鋭いから痛いのだ。この子達の水を飲む姿を見るたびに、死んだウサギを思い出す。
二匹のウサギは雄と雌だから、離して飼っている。ヒポナッチ級数というのはウサギ算というくらいで、ウサギの繁殖力は旺盛だ。しかも避妊手術が大変難しい。隔離するのが現実的な唯一の避妊方法である。
また、雌同士は良いが、雄同士だと噛みあいになって、耳くらいちぎれてしまう。歯は干草とか野菜を食べていても伸びてくるから検査が欠かせない。伸びると食欲がまったく無くなって、放っておくとすぐに死ぬ。伸びた歯は、麻酔をかけて削るしか方法がない。
こんなことを書くと「そんなに面倒なものか。では野生のウサギはどうやって歯が伸びるのを防いでいるのだ?医者にかからずにやっていっているではないか」という人が必ず出る。
簡単さ。次々に死んでいるのさ。だから旺盛な繁殖力があるのだ。
学校で何らかの動物を飼う理由は何か。子供達に情操教育を施そう、ということだろう。控えめに言っても、かなり怪しげな発想である。そんなに簡単に情緒が育まれるのなら誰も苦労しないね。
そもそも、動物が嫌いな人は情操面で問題があるというのだろうか。動物が苦手だという人だってたくさんいるのだ。まさかその人たちが人でなしと言うのではあるまい。
動物を飼っていると、たしかに癒される。それは僕が動物が好きだからだ。札束を見ていれば癒される人だって必ずいる。それもたくさんいる。僕?どちらか分からない。まず、それを知るために持ってみたいものだな。
動物好きな教師が、ぜひ子供たちにはこの気持ちを一緒に味わってもらいたい、と願うのは自然である。しかし、もしもそうであるならば、その教師が率先してウサギ小屋を掃除し、餌をあげ、ある時には獣医に連れて行くことをするべきだ。範を垂れるとはそういうことだろう。飼う以上、それをしない限り、子供は動物を物以下に扱うことしか覚えない。可愛い可愛いと都合よく抱き上げるばかりが動物を愛することではあるまい。その教師はとんでもなく忙しくなるだろうが、動物を通して情操を豊かにと願う以上、やりとげなければならない。
もうひとつ。動物が好きになれない子に、無理強いしないことだ。これは難しいぞ。動物好きは良い人だ、という馬鹿げた考えを捨てることだ。
序でに触れておくが、ウサギを扱える獣医は少ない。良心的な人ならば「自分はウサギは診られない、扱えない」と、専門医を紹介するくらいデリケートなのだ。ウサギを飼っている学校の教師たちの何人が知っているか、訊ねてみたい。
要するに発想が安直なのだ。その上、良いことに決まっていると信じて疑わないものだから、それを止めることすらできない。子供は知らぬ間に大人の怠惰を真似する。いつくしむ心、なんてお題目をいくら唱えても無駄なのである。
それくらいなら、何もしない方がよほどましだ。センチメントからは何も生じないだけではない。無感動が生じるのである。