季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

東方見聞録 ピアノコンクール

2009年07月07日 | 音楽
ある大きなコンクールのひとつを聴きに行った。我ながら酔狂だとしかいえないのであるが、生徒が出たし、この際全部毒を呑んでおこうと覚悟を決めた次第だ。ノーギャラですよ、酔狂どころか、発狂だね。毒食らわば皿まで、という気分で70人近く聴いた。その感想を書いておく。この文は忘れないうちに大急ぎで書き上げよう。リアルタイムだ。タイトルは「見聞録」としか書けない。僕のうちから見ると東にある地方のコンクールだから「東方見聞録」と洒落込んでおく。

一次審査はショパンの練習曲と、その他の任意の作曲家(何人か指定してあるが)の練習曲、計2曲を弾く。

さきに発狂と書いたが、本当に発狂しそうだった。審査員たちはよく発狂しないものだ。プロだからだろうか。それともすでに発狂しているのであろうか。

ショパン、ショパン、ショパン、ショパン・・・・と70人続いて御覧なさい。しかもコンクール受けするように、とチャカチャカ速い曲ばかり続く。

しまいには、ショパンという男は何と軽薄な奴だ、と呪わしくさえ感じた。僕は発狂に関してはアマチュアだから、正直にこうやって感想を述べていられる。

発狂のプロ、若しくはすでに発狂している人たちは平然と、粛々と採点を続けるのであろうか。今にして思えば、呪わしく思ったなんて、ショパンに対して申し訳ない気持ちである。僕は所謂ショパン好きではないのだが、それでも本当に申し訳なかったと思う。

コンクールの印象については、まあどこもこんなものか、と言うに止めておこう。響きのまったくないホールで、悪い楽器で、それを当然と思っている人たちに質の高い、愛情のこもった音、音楽を期待するのは酷だろうか。

だいいち点数を付けられているという意識がないはずがないものな。

以前書いたことを繰り返さざるを得ない。今回はそれを体験したし。通販なんかでお試し期間が設けてあったり、レビューが載せてあったりする。僕の記事もその程度のものと思ってくださって結構。

一次審査で練習曲を弾かせる「常識」の馬鹿らしさについて。練習曲というのは音楽的に制限がある。もちろん作曲家はそれぞれ工夫している。だが、まず同じ音型の連続からなる。これは練習曲というのが同じ音型を駆使した曲なのだからやむを得まい。

受験者は、少しでも他の受験者よりも音楽的であることを誇示しようとする。これもまあ当然といえよう。繰り返すがコンクールだからな。私は他の人より非音楽的なんですよ、と宣伝する馬鹿もおるまい。ただ、曲は表情らしきものを付けられる箇所は限られているから、そこでいかにもやっていますよ、と言わんばかりのほとんど自動化された表情が付けられる。

ためしに市販されているショパンの練習曲集でも聴いて御覧なさい。僕が嫌いなポリーニでもアシュケナージでもいいから。素っ気ないほどだ。そして誰もそれを怪しまない。

今日、コンクールでそれと同じことをやったら、この人は音楽がわかっていない、演奏は指の運動ではない、と正論の許に一次で落とされるだろう。正論は今日日泣いている。

以前、あるピアニストが「でも、練習曲だって音楽的に弾いて欲しい」と言った。これは言うまでもない「正論」だ。しかし、その正論に従おうとした結果が、今回聴かされたような、化粧された演奏だ。

このような課題曲の出し方では、上記のごとき弊害が起こる。課題曲のせいだとは言わない。しかしもう少し工夫できないものか、と思う。(のは僕だけであろうか、と書くのがジャーナリズム内での書き方。僕だけで結構、と居直るのが僕流の書き方さ)

まず投稿してしまう。続きは後で書く。この手の文を数ヶ月経ってから読むくらい馬鹿げたものはないと思うから。