吉田さんの読者、それも熱心な読者は文学好きのひとが多いようである。mixiで吉田秀和を検索したところ、ちゃんとそういった集まりができている。
一通り目を通したのだが、どうも頭の悪い僕にはピンと来ない。
まず「印象批評」という堅苦しい表現が多いのが特徴かな。吉田氏のは印象批評であるけれど他の人に無い説得力がある、といった具合に。
印象批評の反義というのは言うまでもなく論理批評である。ネットの時代になって一層この論理批評が主流になったそうである。論理ならば説得させられるからだという。印象では説得させることはできないからだ。というより、見ず知らずの人に短時間で納得してもらうためには論理の方が便利、そういう次第ではないだろうか。
なるほど、そんなものか。僕はそういった面倒な議論からとうの昔に離れてしまったけれど。
ネット上で見られる多くのブログが、その内容は高度なのにもかかわらず匿名なのはそのせいなのかもしれない。説得ねえ。
説得させるには論理以外にあるまい、と言われてもそもそも説得なんて人間にできるのかな。本気でできると思っているのかな。
僕がいう音の世界だって、厳密に言えば相対的な位置しか占めていない。音楽の歴史なぞたかだか数百年ではないか。今年はメンデルスゾーンイヤーだそうだが、生誕たった200年ではないか。いつかはベルカントもなくなるやも知れず、現に今日の音楽のはるかに多くはまったく違った声で歌われている。
僕自身は説得しようなどとは思っていない。誰かに何かを説得されたと思っている人に、そんなことはありえない、もう一度心の耳を澄ませて聴いてみたまえと言うだけである。
因みにそういう態度を「反知性」というのだそうだ。反知性おおいに結構。利口な奴はひとつ知性的に振舞ったらよかろう。ついでに知性的な恋愛でもしてみればいいじゃないか。
吉田さんのが印象批評だというのは僕にはむしろ意外なのである。彼は印象を軽々しく語ることを強烈に抑えてきた人だ。印象を与える要因を探るまでは語るまいと誓ってきた人だ。
僕はそういうストイックとも呼べる姿勢は、音楽を聴く上で邪魔になることが多いことを繰り返し言うだけである。
吉田さんが、印象批評でも何でもよいけれど、何かを書けばそれに感応するひとが、こうして現に何人も現れる。それは印象批評だからでもなければ、論理批評だからでもない。ただ、吉田さんの文章がうまいからだ。
しかし、文学的にみてうまいと思われる文章も、吉田さんの場合、断定を避けて含みを持つ文体が特徴だが、耳が断定することをためらうからだ、と僕は直覚している。
彼にとって録音の時代とは実に便利な時代なのである。何度も同じ演奏を聴き、自分が感じた(と思われる)ものの「要因」を探し当てる試みを果てしなく続けていけるのだから。これは僕の断定ではない、彼自身が書いていることなのだ。
一般に、断定するものは懐が狭い。それはその通りだが、では懐は深いほど良いのか?そう反問したらどんな答えが返ってくるだろう。これは難問ではないか。
懐が深いというのは中途半端な懐疑主義ではないと誰が言い切れようか。
戦後の懐の深いインテリが僕は苦手である。吉田さんの姿が時折彼らとダブるのはなぜだろう。この難問についても、断片的にではあるが書いていきたいと思う。
この文を結論付けして終わるつもりはない。何度も書いたけれど、僕がブログを書く理由のひとつは、忘れてしまいがちな、ぼんやりした考えの切れ端を、メモ代わりに記録しておこうということだ。
読み捨てる人ばかりでも構わない。ひっかかりを持って、そこから自分で感じ、考えする人がいればなお望ましいと思うけれど。
一通り目を通したのだが、どうも頭の悪い僕にはピンと来ない。
まず「印象批評」という堅苦しい表現が多いのが特徴かな。吉田氏のは印象批評であるけれど他の人に無い説得力がある、といった具合に。
印象批評の反義というのは言うまでもなく論理批評である。ネットの時代になって一層この論理批評が主流になったそうである。論理ならば説得させられるからだという。印象では説得させることはできないからだ。というより、見ず知らずの人に短時間で納得してもらうためには論理の方が便利、そういう次第ではないだろうか。
なるほど、そんなものか。僕はそういった面倒な議論からとうの昔に離れてしまったけれど。
ネット上で見られる多くのブログが、その内容は高度なのにもかかわらず匿名なのはそのせいなのかもしれない。説得ねえ。
説得させるには論理以外にあるまい、と言われてもそもそも説得なんて人間にできるのかな。本気でできると思っているのかな。
僕がいう音の世界だって、厳密に言えば相対的な位置しか占めていない。音楽の歴史なぞたかだか数百年ではないか。今年はメンデルスゾーンイヤーだそうだが、生誕たった200年ではないか。いつかはベルカントもなくなるやも知れず、現に今日の音楽のはるかに多くはまったく違った声で歌われている。
僕自身は説得しようなどとは思っていない。誰かに何かを説得されたと思っている人に、そんなことはありえない、もう一度心の耳を澄ませて聴いてみたまえと言うだけである。
因みにそういう態度を「反知性」というのだそうだ。反知性おおいに結構。利口な奴はひとつ知性的に振舞ったらよかろう。ついでに知性的な恋愛でもしてみればいいじゃないか。
吉田さんのが印象批評だというのは僕にはむしろ意外なのである。彼は印象を軽々しく語ることを強烈に抑えてきた人だ。印象を与える要因を探るまでは語るまいと誓ってきた人だ。
僕はそういうストイックとも呼べる姿勢は、音楽を聴く上で邪魔になることが多いことを繰り返し言うだけである。
吉田さんが、印象批評でも何でもよいけれど、何かを書けばそれに感応するひとが、こうして現に何人も現れる。それは印象批評だからでもなければ、論理批評だからでもない。ただ、吉田さんの文章がうまいからだ。
しかし、文学的にみてうまいと思われる文章も、吉田さんの場合、断定を避けて含みを持つ文体が特徴だが、耳が断定することをためらうからだ、と僕は直覚している。
彼にとって録音の時代とは実に便利な時代なのである。何度も同じ演奏を聴き、自分が感じた(と思われる)ものの「要因」を探し当てる試みを果てしなく続けていけるのだから。これは僕の断定ではない、彼自身が書いていることなのだ。
一般に、断定するものは懐が狭い。それはその通りだが、では懐は深いほど良いのか?そう反問したらどんな答えが返ってくるだろう。これは難問ではないか。
懐が深いというのは中途半端な懐疑主義ではないと誰が言い切れようか。
戦後の懐の深いインテリが僕は苦手である。吉田さんの姿が時折彼らとダブるのはなぜだろう。この難問についても、断片的にではあるが書いていきたいと思う。
この文を結論付けして終わるつもりはない。何度も書いたけれど、僕がブログを書く理由のひとつは、忘れてしまいがちな、ぼんやりした考えの切れ端を、メモ代わりに記録しておこうということだ。
読み捨てる人ばかりでも構わない。ひっかかりを持って、そこから自分で感じ、考えする人がいればなお望ましいと思うけれど。