「フルトヴェングラーかカラヤンか」というタイトルで書いていたら、偶然知人から「証言」フルトヴェングラーかカラヤンかというタイトルの本を貸してもらった。(別)なんて書かなければならないのはそういう事情だ。
しかし紛らわしい題をつける人だね。今急いで「新証言」フルトヴェングラーかカラヤンか、という本を書きたいものだ。売れそうな気がする。
で一読したが詰まらなかった。
以下理由を述べておく。
これはかつてのベルリンフィルのメンバー11人に対して行ったインタビューを元にした本だ。
フルトヴェングラー時代からの楽員もいれば彼の死後入った、つまりカラヤン時代の楽員もいる。
著者は典型的なマスメディア向きのライターだと思った。彼女は何の意図があってこの本を出したのか。それが僕には伝わらない。
念頭にテールヒェンの本があることは間違いないだろう。現に幾人かの楽員はテールヒェンの本に対して不快感を示している。
著者は、僕の判読した限りにおいて、フルトヴェングラーに、また彼について語るテールヒェンに親近感を持っている。テールヒェンをまず一番先に訪問し、彼の許を辞する際には、ぜひもう一度訪ねてもっと詳しく話を聞こうと願い、実際にそうしているのだから。
その上でできる限り色々な団員から公平に意見を聞こうと著者は努める。
ここで一番問題になるのは、公平というのはいったい何に対してであるかということ、およびこういうテーマにおいて公平な態度というものがあり得るのか、またその必要があるのか、ということだ。
楽員とて一枚岩ではありえないから、当然色々な意見があり得る。そこでさまざまな意見を集めていけばより公平になる、そのような気がしてくるのだろうか。
それは一見もっともらしく見えて、実際にはかなり危なっかしい態度である。まず、著者がフルトヴェングラーとカラヤンを選んだのは偶然ではなく、そこにすでに彼女の主観が入っているということ。
またテールヒェンを選んで訪ねているのも同様である。
その辺をしっかり考えないから、まるでアリバイ工作のように他の楽員も訪ねてみる羽目になる。マスコミがよくやる手口である。
こうした本が「客観的」になることはあるのだろうか。そんなはずがない。できることがあるとすれば、徹底した無私の精神による、徹底した主観だろう。主観の何をそんなに恐れるのか。主観の徹底を恐れるのは現代の病気だ。
なるほど、世の中には我田引水が溢れている。だからといって臆病にパッチワークよろしくさまざまな意見を取り集めても、出来上がるものはせいぜい世の中にはいろんな人がいる、という身もふたもない結論だ。
その人の主観が無私の精神に貫かれているか、それともただの独りよがりか、それは作品や行動が示しているはずではないか。
ところでこのレポートのレビューは、僕の意見とはまったく反対に概ね好評で、むしろ次のような反応に代表される。「テールヒェンの本は彼が一方的に自分の思いをぶち撒けた本だったが、この本は公平だ」こうした反応は僕がネット上で見つけたものである。
残念ながらこのレビューを書いた人は読書のコツを知らないと僕は思う。テールヒェンの本から僕が読み取るのは、音楽に対して謙虚であろうとする態度、同時に人は自分を認められたいと言う(正当な)野心から完全に自由にはなりきれない、という苦い思い、またそれを咎めず包み込む暖かい心だ。それを読み取れずに思いのたけをぶちまけた、などと下品な表現を使用する。それがその人すべてを語ってしまう。
さて、困ったことにまだ終わらない。続きは別2にしましょう。
しかし紛らわしい題をつける人だね。今急いで「新証言」フルトヴェングラーかカラヤンか、という本を書きたいものだ。売れそうな気がする。
で一読したが詰まらなかった。
以下理由を述べておく。
これはかつてのベルリンフィルのメンバー11人に対して行ったインタビューを元にした本だ。
フルトヴェングラー時代からの楽員もいれば彼の死後入った、つまりカラヤン時代の楽員もいる。
著者は典型的なマスメディア向きのライターだと思った。彼女は何の意図があってこの本を出したのか。それが僕には伝わらない。
念頭にテールヒェンの本があることは間違いないだろう。現に幾人かの楽員はテールヒェンの本に対して不快感を示している。
著者は、僕の判読した限りにおいて、フルトヴェングラーに、また彼について語るテールヒェンに親近感を持っている。テールヒェンをまず一番先に訪問し、彼の許を辞する際には、ぜひもう一度訪ねてもっと詳しく話を聞こうと願い、実際にそうしているのだから。
その上でできる限り色々な団員から公平に意見を聞こうと著者は努める。
ここで一番問題になるのは、公平というのはいったい何に対してであるかということ、およびこういうテーマにおいて公平な態度というものがあり得るのか、またその必要があるのか、ということだ。
楽員とて一枚岩ではありえないから、当然色々な意見があり得る。そこでさまざまな意見を集めていけばより公平になる、そのような気がしてくるのだろうか。
それは一見もっともらしく見えて、実際にはかなり危なっかしい態度である。まず、著者がフルトヴェングラーとカラヤンを選んだのは偶然ではなく、そこにすでに彼女の主観が入っているということ。
またテールヒェンを選んで訪ねているのも同様である。
その辺をしっかり考えないから、まるでアリバイ工作のように他の楽員も訪ねてみる羽目になる。マスコミがよくやる手口である。
こうした本が「客観的」になることはあるのだろうか。そんなはずがない。できることがあるとすれば、徹底した無私の精神による、徹底した主観だろう。主観の何をそんなに恐れるのか。主観の徹底を恐れるのは現代の病気だ。
なるほど、世の中には我田引水が溢れている。だからといって臆病にパッチワークよろしくさまざまな意見を取り集めても、出来上がるものはせいぜい世の中にはいろんな人がいる、という身もふたもない結論だ。
その人の主観が無私の精神に貫かれているか、それともただの独りよがりか、それは作品や行動が示しているはずではないか。
ところでこのレポートのレビューは、僕の意見とはまったく反対に概ね好評で、むしろ次のような反応に代表される。「テールヒェンの本は彼が一方的に自分の思いをぶち撒けた本だったが、この本は公平だ」こうした反応は僕がネット上で見つけたものである。
残念ながらこのレビューを書いた人は読書のコツを知らないと僕は思う。テールヒェンの本から僕が読み取るのは、音楽に対して謙虚であろうとする態度、同時に人は自分を認められたいと言う(正当な)野心から完全に自由にはなりきれない、という苦い思い、またそれを咎めず包み込む暖かい心だ。それを読み取れずに思いのたけをぶちまけた、などと下品な表現を使用する。それがその人すべてを語ってしまう。
さて、困ったことにまだ終わらない。続きは別2にしましょう。