「証言:フルトヴェングラーかカラヤンか」という本について、書ききれなかったので少々補足しておきたい。
古くからの楽員の一人はカラヤンについて「ボス」であったと言っている。結構雰囲気は伝わってくるけれどね、僕はこういった言い草は好まない。
同じ楽員がオーケストラというのは娼婦と同じだ、指揮者を喜ばせるためにあらゆることをする、と言う。ここで僕はまたしても、この手の勇気のない男はどこにでもいるよなあ、と思う。ベルリンフィルだけが例外ではないものなあ。
このような自虐的な見方は別段新しくもなんともない。それなのに(最近はこういう場合「なのに」と書くでしょう、新聞雑誌で。嫌だね)著者は「オーケストラ娼婦説!驚きました」と追従する。いまさら驚く方に僕は驚く。ここいら辺が、僕がこの本にまったく感心しない理由なのだ。この驚きは半ば承知の上で、形ばかり驚いて見せたものだと感じる。
いったい著者は驚くことしかできないのか?このセリフを吐いたのはフルトヴェングラー時代の人だ。同じ口からフルトヴェングラーが忘れがたい指揮者であったと賛美の言葉を吐かれるのを聞いたはずだ。
では彼にとって賛美する理由は何だったのか、それくらいは食い下がるべきなのだ。彼の許でも自らを娼婦と見做していたのかと。それともオーケストラ=娼婦というのは気の利いた警句だとでも思ったのだろうか。
少なくともテールヒェンにとってフルトヴェングラーという体験は音楽するということと同義だった。(世界のどこに「音楽する」という動詞をもつ国語があるだろう。musizierenという言葉が僕は好きである)
フルートに詰まらぬ、ほんとうに詰まらぬ曲がある。伴奏にいたってはド・ミ・ソとシ・レ・ソをスタッカートでただ弾きつづける。
僕が昔これを伴奏する羽目になったとき、こんなばかばかしい曲をばかばかしく弾いたら、自分が馬鹿になってしまうと思った。およそこれ以上できないような美しいスタッカートで弾こう、と必死で弾いた。
演奏後、ソリストが「この曲を重松さんくらい一所懸命弾いた人を知らない」と呆れられた。大げさにいえば、これが僕のフルトヴェングラー体験である。
伴奏者はオーケストラの連中同様娼婦か?そう自虐的にいうことも可能だ。ついでに演奏家なんて所詮ピエロだ、娼婦だ、不特定の聴衆を楽しませるだけだ、そこまで言ってみろ。
僕はその位置づけなんぞどうでもよい。ピエロかもしれない。娼婦かもしれない。では真剣にピエロを演じろ、娼婦を演じろ。
片一方でエリートの矜持をちらつかせながら、オーケストラの楽員は所詮娼婦です、なんて口の片方で笑うような奴は好かない。
この楽員にとってフルトヴェングラーはただ、偉い人(らしい人)と一緒に仕事をした、セピア色の記憶でしかない。テールヒェンのような「自己」に迫る体験ではなかった。
人の資質は様々だから、それを咎めたところで意味を成さない。件の楽員はセピア色の記憶の中で生きているが良い。しかし、一冊の本を上梓しようとする物書きは、自分がなにを、何のために書こうとするのか自覚くらいするものだ。
せっかく色々な団員と接触して話を聞いたところで、うわさ話をかき集めることしかできないのは、この場面によく現れている。
すでに書いたように、著者は心情的にテールヒェンに好意を感じている。しかしそれすらあくまで雰囲気でしかない。自分の感じた好意を信じる力もない。だから空しく幾人も訪ねては公平を装うことしかできない。
この本がじつにぼんやりとした印象しかもたらさないのは当然である。書評のごときは、野次馬はうわさ話を求めるものだから、取るに足りぬと言うしかない。
古くからの楽員の一人はカラヤンについて「ボス」であったと言っている。結構雰囲気は伝わってくるけれどね、僕はこういった言い草は好まない。
同じ楽員がオーケストラというのは娼婦と同じだ、指揮者を喜ばせるためにあらゆることをする、と言う。ここで僕はまたしても、この手の勇気のない男はどこにでもいるよなあ、と思う。ベルリンフィルだけが例外ではないものなあ。
このような自虐的な見方は別段新しくもなんともない。それなのに(最近はこういう場合「なのに」と書くでしょう、新聞雑誌で。嫌だね)著者は「オーケストラ娼婦説!驚きました」と追従する。いまさら驚く方に僕は驚く。ここいら辺が、僕がこの本にまったく感心しない理由なのだ。この驚きは半ば承知の上で、形ばかり驚いて見せたものだと感じる。
いったい著者は驚くことしかできないのか?このセリフを吐いたのはフルトヴェングラー時代の人だ。同じ口からフルトヴェングラーが忘れがたい指揮者であったと賛美の言葉を吐かれるのを聞いたはずだ。
では彼にとって賛美する理由は何だったのか、それくらいは食い下がるべきなのだ。彼の許でも自らを娼婦と見做していたのかと。それともオーケストラ=娼婦というのは気の利いた警句だとでも思ったのだろうか。
少なくともテールヒェンにとってフルトヴェングラーという体験は音楽するということと同義だった。(世界のどこに「音楽する」という動詞をもつ国語があるだろう。musizierenという言葉が僕は好きである)
フルートに詰まらぬ、ほんとうに詰まらぬ曲がある。伴奏にいたってはド・ミ・ソとシ・レ・ソをスタッカートでただ弾きつづける。
僕が昔これを伴奏する羽目になったとき、こんなばかばかしい曲をばかばかしく弾いたら、自分が馬鹿になってしまうと思った。およそこれ以上できないような美しいスタッカートで弾こう、と必死で弾いた。
演奏後、ソリストが「この曲を重松さんくらい一所懸命弾いた人を知らない」と呆れられた。大げさにいえば、これが僕のフルトヴェングラー体験である。
伴奏者はオーケストラの連中同様娼婦か?そう自虐的にいうことも可能だ。ついでに演奏家なんて所詮ピエロだ、娼婦だ、不特定の聴衆を楽しませるだけだ、そこまで言ってみろ。
僕はその位置づけなんぞどうでもよい。ピエロかもしれない。娼婦かもしれない。では真剣にピエロを演じろ、娼婦を演じろ。
片一方でエリートの矜持をちらつかせながら、オーケストラの楽員は所詮娼婦です、なんて口の片方で笑うような奴は好かない。
この楽員にとってフルトヴェングラーはただ、偉い人(らしい人)と一緒に仕事をした、セピア色の記憶でしかない。テールヒェンのような「自己」に迫る体験ではなかった。
人の資質は様々だから、それを咎めたところで意味を成さない。件の楽員はセピア色の記憶の中で生きているが良い。しかし、一冊の本を上梓しようとする物書きは、自分がなにを、何のために書こうとするのか自覚くらいするものだ。
せっかく色々な団員と接触して話を聞いたところで、うわさ話をかき集めることしかできないのは、この場面によく現れている。
すでに書いたように、著者は心情的にテールヒェンに好意を感じている。しかしそれすらあくまで雰囲気でしかない。自分の感じた好意を信じる力もない。だから空しく幾人も訪ねては公平を装うことしかできない。
この本がじつにぼんやりとした印象しかもたらさないのは当然である。書評のごときは、野次馬はうわさ話を求めるものだから、取るに足りぬと言うしかない。