コンクールの審査上の提案をもうひとつしておこう。
見物!した僕の感じたままをいうけれど、いったい誰が誰にどんな点数をつけたのかを知りたい。なんだか有名なリンカーンの演説みたいになっちまったけれど。受験者の、受験者による、受験者のためのコンクール!あれ、こいつはおかしいね。審査員の、審査員による、審査員のためのコンクール!こいつもおかしいか。でもこっちだとおかしくないような気もする。リアリズムの極のようにも感じる。
僕があるコンクールの審査に携わっていたとき、いちばんもどかしかったのは、非常に優秀だと僕には聴こえた人が落ちたときである。僕の意見を通したいというのとはちょっと違う。
コンクールなんて、人の演奏に人が点数を付けるものだ。演奏を点数で評価するのはそもそも不可能なことだ。落ちるときは落ちるし、受かるときは受かる。評価する人の顔ぶれが代われば評価自体も変る。結果について、他の審査員を莫迦やろうと思うことはあっても、不服に思うことはない。
もどかしさというのは、落ちた人がただ落胆しているように見えることだ。僕は君を評価したのだが、と声をかけたいことがよくあった。今でもそうだ。
反対に受かって意気揚々としている人に、君の演奏には大きな問題があると僕は思うよ、と一声かけたいこともないわけではない。
当時も提案し、今また再提案したいのは、全採点表を公開するということだ。いっそのことそうしてしまったら、どんなにさっぱりするか。しているコンクールもあるようだが。
点数というものは、何も語らない。あるのは当落という結果だけだ。これでは詰まらないではないか。抽象的な数字も、ちょっと扱いを変えればある程度人間らしいメッセージを込めることになる。そう思いませんか。
受かった人が、あるいは聴いていた人がその表を目にする。すると全員が高得点を与えている場合もあれば(一番よくあるのは)全員が平均的な点数だったりする。
あるいはある審査員が極めて高く評価していることもあるし、反対にある人が極端に悪い点数を与えていることだってあり得る。
落選した人の表からも同じようにして色々なことを読み取ることが可能だ。
落ちてしょんぼりするのは人情として当然だが、自分が敬意を払う審査員からは高得点を得ていたら大きな励みになろう。落とされた理由が自分は尊敬しない審査員の点数だったら、なんだ、あんな人から悪い評価でも気になるものか、と思う人も出よう。
受かっても尊敬する人からの評価が思わしくなければ、有頂天になるという弊害からはまぬがれる。
審査員にしても、より責任がある態度で採点するだろう。
この点数公開は僕が関係していたコンクールでも提案したのだが、よく訳のわからない理由で却下された。
たとえば、そんなことをしたら演奏者は点数のことばかり気にするようになる、とか。ちょいと待ってくれよ、コンクールを受ける人はみんな点数のことばかり気にするはずではないか。これは少なくとも点数を付ける人が言うセリフではないな。
これはね、受ける人が自らに、点数のことばかり気にせずに、音楽をしよう、と自戒の念を込めていう言葉だろう。
その他、時期尚早という人もいた。なんのこっちゃ。いつになったら時は満ちるのか。時が満ちるのを待たずにコンクール自体が消滅した。他にも具体的にいくつか提案したが、結局なんだかんだの理由にならぬ理由が出てきて消滅の危機感を持ったまま消滅した。間抜けを絵に描いたような話だ。僕の提案に反対があるのはちっとも構わないが、その場合、それなりの理由を挙げてくれ、と願うね。
ついでに言っておくとね、幕末の様子を描いた大仏次郎「天皇の世紀」を読むとじつに面白い。黒船が来航し、幕臣たちが右往左往し、結論を出さずに、出せずに引き籠ってその場しのぎの会議をし、フランスやイギリスの代表に子供だましみたいな言い訳をする。そしてそれを激しく非難されると、またしても城内に引き籠って会議をする。いつになっても変わらない。登場する○○衛門から裃袴と髷を取っちまったら、そのまま現代人だよ。読書しているときにはイライラせずに面白いものだ、と思うよなあ。
見物!した僕の感じたままをいうけれど、いったい誰が誰にどんな点数をつけたのかを知りたい。なんだか有名なリンカーンの演説みたいになっちまったけれど。受験者の、受験者による、受験者のためのコンクール!あれ、こいつはおかしいね。審査員の、審査員による、審査員のためのコンクール!こいつもおかしいか。でもこっちだとおかしくないような気もする。リアリズムの極のようにも感じる。
僕があるコンクールの審査に携わっていたとき、いちばんもどかしかったのは、非常に優秀だと僕には聴こえた人が落ちたときである。僕の意見を通したいというのとはちょっと違う。
コンクールなんて、人の演奏に人が点数を付けるものだ。演奏を点数で評価するのはそもそも不可能なことだ。落ちるときは落ちるし、受かるときは受かる。評価する人の顔ぶれが代われば評価自体も変る。結果について、他の審査員を莫迦やろうと思うことはあっても、不服に思うことはない。
もどかしさというのは、落ちた人がただ落胆しているように見えることだ。僕は君を評価したのだが、と声をかけたいことがよくあった。今でもそうだ。
反対に受かって意気揚々としている人に、君の演奏には大きな問題があると僕は思うよ、と一声かけたいこともないわけではない。
当時も提案し、今また再提案したいのは、全採点表を公開するということだ。いっそのことそうしてしまったら、どんなにさっぱりするか。しているコンクールもあるようだが。
点数というものは、何も語らない。あるのは当落という結果だけだ。これでは詰まらないではないか。抽象的な数字も、ちょっと扱いを変えればある程度人間らしいメッセージを込めることになる。そう思いませんか。
受かった人が、あるいは聴いていた人がその表を目にする。すると全員が高得点を与えている場合もあれば(一番よくあるのは)全員が平均的な点数だったりする。
あるいはある審査員が極めて高く評価していることもあるし、反対にある人が極端に悪い点数を与えていることだってあり得る。
落選した人の表からも同じようにして色々なことを読み取ることが可能だ。
落ちてしょんぼりするのは人情として当然だが、自分が敬意を払う審査員からは高得点を得ていたら大きな励みになろう。落とされた理由が自分は尊敬しない審査員の点数だったら、なんだ、あんな人から悪い評価でも気になるものか、と思う人も出よう。
受かっても尊敬する人からの評価が思わしくなければ、有頂天になるという弊害からはまぬがれる。
審査員にしても、より責任がある態度で採点するだろう。
この点数公開は僕が関係していたコンクールでも提案したのだが、よく訳のわからない理由で却下された。
たとえば、そんなことをしたら演奏者は点数のことばかり気にするようになる、とか。ちょいと待ってくれよ、コンクールを受ける人はみんな点数のことばかり気にするはずではないか。これは少なくとも点数を付ける人が言うセリフではないな。
これはね、受ける人が自らに、点数のことばかり気にせずに、音楽をしよう、と自戒の念を込めていう言葉だろう。
その他、時期尚早という人もいた。なんのこっちゃ。いつになったら時は満ちるのか。時が満ちるのを待たずにコンクール自体が消滅した。他にも具体的にいくつか提案したが、結局なんだかんだの理由にならぬ理由が出てきて消滅の危機感を持ったまま消滅した。間抜けを絵に描いたような話だ。僕の提案に反対があるのはちっとも構わないが、その場合、それなりの理由を挙げてくれ、と願うね。
ついでに言っておくとね、幕末の様子を描いた大仏次郎「天皇の世紀」を読むとじつに面白い。黒船が来航し、幕臣たちが右往左往し、結論を出さずに、出せずに引き籠ってその場しのぎの会議をし、フランスやイギリスの代表に子供だましみたいな言い訳をする。そしてそれを激しく非難されると、またしても城内に引き籠って会議をする。いつになっても変わらない。登場する○○衛門から裃袴と髷を取っちまったら、そのまま現代人だよ。読書しているときにはイライラせずに面白いものだ、と思うよなあ。