コンクールの課題に練習曲を入れるのは、受験者が果たしてテクニックを有しているかを見たいからだろう。
僕にはなぜそんなに心配するのかがまず分からないね。練習曲を練習する(変な日本語だなあ)理由は、技術を身につけることにある。ということは曲を見事に弾いたとしたら技術があるということではないのか。
僕は寡聞にして、グレン・グールドのショパン練習曲を聴いたことがない。もしも聴いたことがある人は是非教えてください。聴いたことがないのにも拘らず、グールドが類まれな能力を持っていることは分かる。それともショパンの練習曲を聴くまではグールドのテクニックを信じないとでもいうのだろうか。
まあ、そこまで理屈をこねるつもりではない。ただ、理屈をこねているのは僕ではない、むしろコンクールの一次審査は練習曲と決めて、何の疑問も感じていない音楽関係者だと思う。
指が回る(これは業界用語だな、一般には指が動くという方が正しい。指が回ったらきっと折れてしまうか、その人は宇宙人である可能性がある)かどうか、それが気になるという意見をまったく無視するつもりでもない。
たとえば二次審査以降で練習曲を含むプログラムを組む、これが僕の提案である。政治家たちはよく反対のための反対はいかがなものか、代替案を提出していただきたい、とか言うね。よく言うよ、とは思うけれど、まあその通りでもあるのが癪の種だ。その点でも(僕の態度は)模範的だろう。
一次審査は古典派、ロマン派あたりで適当な長さの曲に限定する。その上で一定の時間が経過したら、止むを得ない、カットする。本来はカットするなんて芸術に対する正当な扱いではない。しかし時間の制約上練習曲がもっとも適当なのだ、という意見に対するには、この方法しかないだろう。芸術に対して失礼だ云々は、ショパンに対してなんという軽薄さだ、と感じさせるよりずっとずっとましだろう。
適当な長さの曲と僕がいう訳は、さもないと長大な曲で、終結部がむつかしい曲を提出して、わずか数分弾くだけ、といった「知能犯」が出てきかねないほど、コンクールという場は荒れているのである。なにせ、知られていない曲だったらアラも目立たぬ、という知恵を得て、現存するロシアの作曲家の楽譜を手に入れて弾く人までいる。この調子では近い将来チベットとかマヤ族の末裔とか南極の作曲家も出てきそうだ。
演奏自体の荒れ方も含めて、これは一方的に受験者が責められることではない、と僕は思う。
二次審査に普通の曲と練習曲だったら、まず二十数名の練習曲を聴けばすむ道理だし、他の曲も挟まるし、耳ははるかに落ち着いて反応できる。ショパンはなんて軽薄な男だ、などの失敬千万な言葉が出ることは少なくなるだろう。
落ち着いて考えてみればよい。指が動いて音楽はあるかないか分からぬ人をまず選別するのと、まず音楽的な人を選別して、その後指が動く人を厳選するのと、どちらが手際よく、また芸術的に選別できるかを。
指の動きを含め、技術はその人の音楽性に応じて高めることは可能だ。ところが音楽性、こんな言葉が抽象的過ぎるならば、音楽への愛着といっても良いが、これはいったん失ったらまず後々取り戻すことができない。だからこそ高校、大学あたりの過ごし方が大切なのだ。
さて最後に、練習曲ばかり聴かされて僕が発狂寸前だった、ということに対し、一般の人は全部聴こうなどという酔狂はしないのだ、と言いたい人もいるだろうから、本当のところを書いておく。
僕は審査員に対して同情と危惧の念を抱いているのだ。心ある人は、心ない演奏を聴いて発狂寸前までいくだろう。しかし自ら不感症の権化と化した人は、心痛めることはないかもしれないが、音楽を傷めるであろう。いずれにせよ、ほめられたことではあるまい。ちょっとした改変でも、それを最小限に抑えることはできる。まず一歩動いてみることを勧めたい。
題名は検索に引っかかりにくいことを考慮して今、ピアノコンクールという語を付け足した。むつかしい時代になったなあ。
僕にはなぜそんなに心配するのかがまず分からないね。練習曲を練習する(変な日本語だなあ)理由は、技術を身につけることにある。ということは曲を見事に弾いたとしたら技術があるということではないのか。
僕は寡聞にして、グレン・グールドのショパン練習曲を聴いたことがない。もしも聴いたことがある人は是非教えてください。聴いたことがないのにも拘らず、グールドが類まれな能力を持っていることは分かる。それともショパンの練習曲を聴くまではグールドのテクニックを信じないとでもいうのだろうか。
まあ、そこまで理屈をこねるつもりではない。ただ、理屈をこねているのは僕ではない、むしろコンクールの一次審査は練習曲と決めて、何の疑問も感じていない音楽関係者だと思う。
指が回る(これは業界用語だな、一般には指が動くという方が正しい。指が回ったらきっと折れてしまうか、その人は宇宙人である可能性がある)かどうか、それが気になるという意見をまったく無視するつもりでもない。
たとえば二次審査以降で練習曲を含むプログラムを組む、これが僕の提案である。政治家たちはよく反対のための反対はいかがなものか、代替案を提出していただきたい、とか言うね。よく言うよ、とは思うけれど、まあその通りでもあるのが癪の種だ。その点でも(僕の態度は)模範的だろう。
一次審査は古典派、ロマン派あたりで適当な長さの曲に限定する。その上で一定の時間が経過したら、止むを得ない、カットする。本来はカットするなんて芸術に対する正当な扱いではない。しかし時間の制約上練習曲がもっとも適当なのだ、という意見に対するには、この方法しかないだろう。芸術に対して失礼だ云々は、ショパンに対してなんという軽薄さだ、と感じさせるよりずっとずっとましだろう。
適当な長さの曲と僕がいう訳は、さもないと長大な曲で、終結部がむつかしい曲を提出して、わずか数分弾くだけ、といった「知能犯」が出てきかねないほど、コンクールという場は荒れているのである。なにせ、知られていない曲だったらアラも目立たぬ、という知恵を得て、現存するロシアの作曲家の楽譜を手に入れて弾く人までいる。この調子では近い将来チベットとかマヤ族の末裔とか南極の作曲家も出てきそうだ。
演奏自体の荒れ方も含めて、これは一方的に受験者が責められることではない、と僕は思う。
二次審査に普通の曲と練習曲だったら、まず二十数名の練習曲を聴けばすむ道理だし、他の曲も挟まるし、耳ははるかに落ち着いて反応できる。ショパンはなんて軽薄な男だ、などの失敬千万な言葉が出ることは少なくなるだろう。
落ち着いて考えてみればよい。指が動いて音楽はあるかないか分からぬ人をまず選別するのと、まず音楽的な人を選別して、その後指が動く人を厳選するのと、どちらが手際よく、また芸術的に選別できるかを。
指の動きを含め、技術はその人の音楽性に応じて高めることは可能だ。ところが音楽性、こんな言葉が抽象的過ぎるならば、音楽への愛着といっても良いが、これはいったん失ったらまず後々取り戻すことができない。だからこそ高校、大学あたりの過ごし方が大切なのだ。
さて最後に、練習曲ばかり聴かされて僕が発狂寸前だった、ということに対し、一般の人は全部聴こうなどという酔狂はしないのだ、と言いたい人もいるだろうから、本当のところを書いておく。
僕は審査員に対して同情と危惧の念を抱いているのだ。心ある人は、心ない演奏を聴いて発狂寸前までいくだろう。しかし自ら不感症の権化と化した人は、心痛めることはないかもしれないが、音楽を傷めるであろう。いずれにせよ、ほめられたことではあるまい。ちょっとした改変でも、それを最小限に抑えることはできる。まず一歩動いてみることを勧めたい。
題名は検索に引っかかりにくいことを考慮して今、ピアノコンクールという語を付け足した。むつかしい時代になったなあ。