季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ドラエモン

2008年09月06日 | 音楽
自分のことを棚に上げて言うのだが。

日本の音楽家、正確にいえばピアニストはものを考えて表現する能力に欠けすぎている。僕は大学に入ってすぐそう思った。

それからずいぶん歳月は流れたが、似たようなものだ。学力が上がったのか下がったのか、そんなことは知らないけれど、自分の頭で考えて、自分の言葉で表現する力はあまりない。

まず、なぜだろうと問わない。所謂秀才ほどそうした傾向にある。いちいちなぜだろうと問いかけていたら秀才になる暇がないのだろうか。

そのへんを問い直すのはまたの機会に譲っておこう。欠点に気づきながら手を拱いているのもしゃくで、若い生徒何人かに、新聞評についての感想というか、レポートを書かせたことがある。

何人かは真剣に取り組んでくれて、力作があり、とても嬉しかった。

その中のひとつに、作曲家の書いた楽譜と演奏について、たいへん面白い例を使って述べたものがあった。「ドラエモン」を例に出してあって、意表を突かれたのだ。こういうのは好きだな。

藤子不二雄さんの「ドラエモン」は彼らの代表作だろう。今の子供たちにも人気があるのではないか。

これは元来は少年コミックの連載だろうと思うが、テレビアニメとしても地位を確保した。主人公のドラエモンを声優の大山のぶ代さんが受け持ってはじめて試写会があったとき、藤子不二雄さんが臨席した。

藤子不二雄というのは我孫子さんと藤本さん二人の漫画家の合作時のペンネームだったが、デビューした当初は同じ作風だったのに、次第に差が表れてきたので藤子不二雄A、藤子不二雄Bとして単独で書くようになったのだ。どちらがAでどちらがBなんだろう?

臨席していたのがどちらか分からず、もしかすると二人とも招かれていたのかもしれず、ここの処は生徒のレポートに拠るために確認できないけれど。

さてそんなことは重要ではない。ドラエモンを描いた方の藤子不二雄さんは(と書くとなぜ藤子不二雄さんについて少し詳しく書いたかがお分かりでしょう、知らないとなんのことやら通じなくなります)大山のぶ代さんに「ドラエモンてこんな声をしていたんですねえ」と言ったそうだ。

作者でさえも、ドラエモンの声を知っていなかった。これは考えてみれば当たり前のことだ。

「魔笛」のパパゲーノは世の中の女の子がぜんぶ自分のものだったら、と無邪気にうたう。この馬鹿者を人は笑うが、実のところ、ほとんどすべての男はそう思っているわけだ。それはさておいて、彼にしたところで、自分のものになった女の子の声を想像することはできないのである。おもしろいことではないか。

声に限ったことではない。神様といえば、人間と同じ姿をしている。ただ、ずっと立派な様子だけれど。僕たちはまったく知らないものを空想することはできないのだ。

ある作曲家が、自分の曲が初演されるとき、どんな響きになるのだろうと楽しみと緊張で胸がいっぱいになる、と言っていた。そうなのだろうな。つまり作曲者は演奏されるまでは、自作といえど本当に知っているといえない状態にある。彼が知っているのは、家に例えれば設計図であって、家自体ではない、とでもいおうか。音楽評論家の遠山一行さんが、作曲家は果たして音楽家であろうか、という逆説を持ち出す理由である。

作品は演奏されてはじめて作品になる。作曲者ですら、ドラエモンの作者同様、本当の姿を知らない。演奏家は芸術家であるか、そんなご大層な質問は要らない。どちらでも一向に構わないさ。作品を演奏する人が必要で、僕はその作品を好きだから演奏するし、同じような人を育てようと力を傾ける。




応援

2008年09月04日 | スポーツ
時々サッカーの試合を観に行く。日本代表の試合の場合は日本チームを応援しに行くわけだが、国内リーグだと、なんとなく応援しているチームはあっても、のぼせるほどではないから、純粋にプレーを楽しむ。

野球に関心があった頃は結構後楽園や、今は無い川崎球場にも足を運んだ。

応援の風景も随分変わった。僕は今の応援スタイルにどうしても馴染めない。みんなが一斉にのべつ幕なしに歌って、というかね。

80年代に帰国して、色んなものがガラリと変わっていたのには驚かされたが、野球の応援もそのひとつだった。東京音頭というのに合せて、揃いの傘をゆする応援が定着したチームがあり、ここが一番目立った。

その昔僕が球場に足を運んでいた頃は、各人が勝手に声を上げていたのだ。外野席から外野手に野次を浴びせる。その選手の弱点なり、ちょっと痛いところを突いたりしてからかうのは日常茶飯事であった。選手のほうも、怒って客席のほうへ向かうそぶりをしてみせると、観客がどっと湧くような野蛮なものだった。

もっとも、そんなことは本当はどうでもよい。

僕は、今はもう無い、西鉄ライオンズのファンだったが、このチームが最後に大逆転で優勝した年のことをよく覚えている。夏場、驚異的な追い上げを見せていたころ、僕もラジオの前にへばりついていた。

相手ピッチャーが振りかぶる前、場内はしんと静まり返り、異様なまでの静寂が支配する。ピッチャーが投球動作にはいると、地鳴りのように歓声が湧き上がる。ほんとうに地鳴りとしか言いようがない、途轍もないクレッシェンドなのだ。アナウンサーの声など、まったく聞こえない。地鳴りはボールがピッチャーの指先から離れ、キャチャー目がけて飛んでいく時に最高潮に達する。

バッターが見逃す。審判のコールすら聞こえないが、どうやらボールらしい。すると地鳴りは潮が引くようにおさまり、しばしざわついた空気になる。そして再びしんと静まり返り、ピッチャーの投球動作に入るのを固唾をのんで見守る。同じことが何べんも何べんも繰り返されるのである。

音楽が音と静寂の組み合わせだとすれば、そのもっとも分かりやすい例がこの時の歓声だ。そして、それは毎試合ごとに繰り返されていたことを思えば、人々は一種の幸せな音楽的環境に生きていたといえる。

町で見かける音はどうだったのだろうか。それについてはっきりとした記憶はないのである。やはり騒音だらけだったのだろうか。

僕が街中の音をはっきり意識して記憶にとどめるようになったのは、9年ぶりに帰国した成田空港で、エスカレーターの頭上から「お足元にご注意ください。ベルトにつかまり・・・」というアナウンスがひっきりなしに降ってきて、やかましい、と感じたときからだ。注意されなくとも注意するさ。なんだってこんなに騒ぎ続けるのだ。

でも、学生のころも、山手線で傘などのお忘れ物にご注意ください、とアナウンスされる都度、うるさい、言われたって忘れるワイ、と思ったのだから、やはりうるさかったのかもしれない。どうなのだろう。町の様子を写真に残しておけば、目では確認できるが、ここでも音は記憶にない。

因みに僕の傘の平均使用回数は4,5回なのだ。ビニール傘の普及がどれほど有難いか!国民栄誉賞を開発者へ!

応援する人たちは、今では試合を応援しているのか、応援を熱演しているのか、傍からは区別が付かない。試合とまるで関係ないリズムであることは確かだ。

中東との試合を見ると、独特の、蛇使いのような音楽が終始流れていて、コーランだが、あれはやりにくかろうと思う。千夜一夜物語みたいに不思議な起伏を伴って、延々と続く。シュートを放つタイミングが取れないね、僕だったら。

同様に外国のチームが日本に来て試合をしたら、間断なく続く歌声?に惑わされてシュートを打てないのではなかろうか。その割にはピンチの連続だなあ。いっそ倣ってお経を唱えるとかね。間断なく鳴り響く木魚の音。フェイントひとつかけられまい。

僕はゲームの状況に応じた歓声が欲しいな。西鉄ライオンズの声援のようにはいかぬものだろうか。センタリングとともにウオーっとクレッシェンドして、シュート失敗で短調の和音になる。だれたパス回しの時にはシーンと静まり返って、選手の足音まで聞こえてさ。そしていきなりのフォルテッシモのブーイングなんて楽しいなあ。指揮は小澤征二さんで良い。






ゲーム脳

2008年09月02日 | その他
たった今気づいたのだが、インターネットニュースで、ある種のゲームは外科医の能力を高める、という記事があった。アメリカでの研究結果だそうだ。

僕の情報源はもっぱらインターネットである。テレビはまったく信用しない。一番インパクトが強い分、脚色したい誘惑に打ち克つのが困難らしい。

新聞は、あの3流小説のような文体を見ただけでも、だめである。

ネットニュースの良いところは、ほほう、と思ったニュースの関連から、反証や確認がたちどころにできる点だ。

日本では、ゲームは目の敵にされている。僕自身はまったくしないけれど、どうも目の敵にしている人の言い分には、素直にうなづけない。

だいぶ前に「ゲーム脳」という言葉を発明した「学者」がいた。ゲームをしすぎると脳が壊れる、という説である。この説は、今ではあらゆる脳科学者により否定されている。いわゆるとんでも本、あるいは似非科学と折り紙つきなのだ。それにもかかわらず、なにか事が持ち上がるたびに「証拠」として取り上げられる。こういう学説があるとおり、というわけだ。

たとえばゲームをしすぎると明らかに学力の低下が見られるという。あたりまえだ。勉強をする時間がなくなるのだから。犬と遊びすぎると明らかな学力の低下が見られる、という研究結果だって出るだろう。犬と遊ぶのは学力の低下を招くという文科省の勧告が出たりしてね。麻雀をしすぎるとピアノが下手になるというデータだってあるぞ。

また、ゲームをしているときの脳波には異常が見られる、といわれる。これも当然だろう。何かに集中したときの脳波が異常を示すのはそんなに珍しいことではないだろう。ピアノを弾いているときの脳波も、異常だそうだから。

と、ここで僕は考え込んでしまう。脳を破壊するというのは本当かも知れん。僕の知るあのピアニスト、このピアニスト、ああ壊れている。

冗談はさておき、ゲーム脳という否定的な、刺激的な言葉はいったん使われ始めると、何やらいかにもそれらしくきこえてくるようだ。ゲームを目の敵にする人たちは、その「ゲーム脳」がとっくに否定されている、もしくは甚だしく疑問視されていることを知ってか知らずか、無視を決め込む。だって私はそう思うのだから、といった勢いだ。

ではそう思うのは、つまりゲームは脳に悪いのではないか、と思うのは間違いか?そうとばかりも言えない。直感を持つために、なにも科学にお墨付きをいただく必要はない。19世紀の詩人達は、人間の文明の行き詰まりを直感した。こうした直感を働かせること自体は、僕らにとってまた、大切なことだ。僕はゲームに関して、そういう否定的な気持ちはないけれどね。

ただ、その直感を規則という形で押し付けることがいけないのだ。ゲームがそんなに悪影響をもたらせると思うならば、自分や家族にさせなければよいだけの話だ。

残酷なゲームでも事情は同じさ。子供にさせたくない人はさせない、それだけのこと。したって構わない、僕にはそうとしか思えない。アラン・ポーの作品や、ホームズの作品、いやあらゆるミステリー小説では殺人が起こり、人の憎悪が語られる。カステラがなくなった、という話でミステリー小説が成立するかい。我が家ではそういった事件が頻発し、犯人探しに躍起になっているけれど。まあ、犯人は僕で、自首するんだが。

それとも文章は映像に比べて、神経を刺激する力が弱いのであろうか?本来は逆ではないか。これほど映画やアニメやゲームが広まっても、高級から低級に至る小説は減らないではないか。このことは読んでいる張本人がよく知っていることだ。もしもゲームが規制されねばならぬならば、多くの小説類も同様の規制を受けなければならない。

それにもかかわらず、何か事件が起こると規制の対象として語られるのはゲームやアニメなのだ。言い換えれば、言葉のもつ強い影響力の下、自由な思考が禁じられた結果である。言葉は、かくも強烈な力を有するものでもある。

繰り返すが、僕自身はゲームに関心がない。おっと、麻雀をゲームと表現したことがあったっけ。

それでも最近は青少年の犯罪が増えているではないか、と身を震わせている人へ。警察庁のデータを見てごらんなさい。青少年の重大犯罪が最も多かったのは、なんと昭和33年で、今はその当時の1/7に激減している。

また、現代日本の重大犯罪を犯す世代は50代で、これは世界的に見て特異な例だそうだ。この「異常な」現象も、何らかの原因はあるのだろうが、短兵急にイメージだけでこれ、と特定するのは危険だろう。

昭和33年に少年だった人が今や5,60代である、ゲームをしなかったため、ストレスを発散できなかったからだ、という学説が出てきたらどうする?