津山城
2011年07月26日 | 城
津山城のある鶴山に嘉吉年間に美作守護山名教清の一族山名忠政が築城した。
応仁の乱後山名氏も衰え、文明年間に廃城となり、以後神楽尾城の支配する地となった。
慶長8年、関ヶ原の戦功により美作一国186,000石を領して、森忠政が信濃川中島(松代)から入国した。忠政は、鶴山に新城を築城開始するが、大坂の陣や幕府からの築城夫役のため、13年の歳月をかけ元和2年に完成した。
森氏は、忠政-長継-長武と続き、元禄10年に4代長成が死去し、5代衆利が 相続のため江戸出府途中に死去、このため森氏は改易となった。
しかし、2代森長継は存命であった。幕府は、改めて長継を取り立て備中西江原2万石に封じた。その後、森氏は宝永3年に播州赤穂へ移封となった。
元禄11年、越前松平氏嫡流家の松平宣富が津山10万石に封じられた。以後、松平氏が津山を動くことなく、9代続いて明治に至った。
応仁の乱後山名氏も衰え、文明年間に廃城となり、以後神楽尾城の支配する地となった。
慶長8年、関ヶ原の戦功により美作一国186,000石を領して、森忠政が信濃川中島(松代)から入国した。忠政は、鶴山に新城を築城開始するが、大坂の陣や幕府からの築城夫役のため、13年の歳月をかけ元和2年に完成した。
森氏は、忠政-長継-長武と続き、元禄10年に4代長成が死去し、5代衆利が 相続のため江戸出府途中に死去、このため森氏は改易となった。
しかし、2代森長継は存命であった。幕府は、改めて長継を取り立て備中西江原2万石に封じた。その後、森氏は宝永3年に播州赤穂へ移封となった。
元禄11年、越前松平氏嫡流家の松平宣富が津山10万石に封じられた。以後、松平氏が津山を動くことなく、9代続いて明治に至った。