今年の5月、青森に帰郷する際東北道で真っ直ぐ行かず途中から過去に住んでいた
山形県と秋田県を抜けて行きました。
転勤族の息子である私は青森生まれ。
その後、岩手県盛岡市⇒山形県鶴岡市⇒秋田県本荘市(現由利本荘市)⇒青森県
青森市と移動しました。
以前青森市の様子はお伝えしましたが今回は、山形県鶴岡市です。
ここは、幼稚園の年長組から小学校3年生まで暮らしていました。
家は公務員官舎で三軒一棟の長屋形式で、トイレ・風呂共共同。
真ん中は誰も住んではいなかったので2世帯。
お風呂はかわりばんこに1番風呂をいただくマナー。
終われば、○○さん お風呂ど~そ~! と声をかける。
最後に入るときは出汁のでた風呂に入ることになる。
今じゃ想像できないでしょうね。
鶴岡駅前のロータリーから駅を見ます。
当然、当時の建物ではなく駅前もこんなに広くなかった?
45~6年前の記憶を元にしていますから、うろ覚えです。
現在の鶴岡駅。居酒屋が同居。
帰りもも遅くなっちゃうかな・・・
駅の脇には記憶にかすかに残る建物が・・・
運送会社の倉庫として現役の建物。
これは当時からあったかどうか記憶はさだかですが、かなり古い建物。
なんとなく記憶はある。
当然、昭和の香りはしますね。日曜の朝はこのへんで遊んでました。
また、駅に入ってくる列車を眺めたり。
さて、住んでいた所を尋ねると
朝の7時過ぎに行ったところ
道路は渋滞進まない。
舗装はされておらず、砂利道。
住んでいた家の前にあったのは?
山形大学農学部
当時は学舎はもっと手前にあり、左手にテニスコートがあった。
奥には牛舎などの畜産関係の建物。
多分左奥だと思うのですが、農産関係の研究施設があった。右奥かも・・・
このキャンパス内は私の遊び場所。
小2の頃にはテニス部の学生さんとテニスをしたり、研究施設の周りは
友達とかくれんぼにはもってこい。
たまには学生さんの下宿先に遊びにいったりと、小学校の友達よりは
大学の学生さんと遊ぶ日が多かった。
また、学祭にも招待されたり
当時はモンキーダンスが流行っていた頃。当然、私も教育的指導よろし
く両手をくるくるしながら、頭と腰をかっくんかっくん
よかったなぁ。
周辺に遺跡のように当時の物が点在していましたが、道路は狭く車も止められず。
結局、当時住んでいた場所は全く変わり果て特定出来ませんでした。
かんじんの小学校は、大学のお隣。
現在の姿ですが、当時は当然木造2階建て。
右方向が山形大学。
ここも道路は砂利道です。当時はね。
ここが入学から3年生まで過ごした小学校。「ちょうよう第三小学校」
です。なぜかこの校舎の記憶はありません。
朝はスクールゾーンで車両進入禁止。正門には行けなかった。
ちなみに幼稚園は「若葉幼稚園」 今回は行きません・・・
いや、忘れてました
40年以上前の建物が現在もそのまま残っていたら、奇跡かゴーストタウ
ンだ。
街中をしばし車で回ってみたけど、思い出すものは何もなし。
4年しかすんでいなかったから当然でしょうか?
さて、もう一つ当時の様子を残しているものがありました。
夏の海水浴、鶴岡市民は電車に乗り湯野浜海岸へと向かいます。
鶴岡駅から、庄内交通湯野浜線 と言う私鉄がありました。
こんな車両です。
これらに乗って、ガタンゴトンとのんびり電車は走り終点湯野浜温泉に到着。
かなり昔に廃線になりましたが、一部は旧善法寺駅に保存されていました。
庄内交通の記念館として、旧駅舎を利用していましたが訪問者数の減少
とともに閉館。
現在はそのまま放置されています。資料などは付近のホテルに譲渡された
ようですが、現在は貴重な資料は行方不明。
残念なことです。
善法寺とは?
駅の由来になったのはお寺です。駅前にあり現在でもお参りする方は多い
そうです。残念ですね。
終点の湯野浜温泉。かつては手頃な温泉街として鶴岡市民や周辺から訪れ
賑わっていた街も、ひっそりと生き延びているようでした。
中央のプールのような物は足湯ですが、今はお湯も出ず。
時代の流れから取り残された温泉街。もちろん、営業している旅館やホテルも
ありますよ。写真右手は日本海。珍しく砂浜が続いています。
だから海水浴。
懐かしいですね。
1965~6年ころのおはなしでした。
次回は秋田県編です。