『浪華奇談』怪異之部 7.天狗清兵衛
2024.3
安永(1772~1781年)の頃、浪花に天狗の清兵衛と言う者がいた。
天狗に仕えた故に、このように名付けられた。
この者は、傘張りを業(なりまい)としていた。
私の父が、天狗の話をこまごまと問うた。
清兵衛は言った。
「初めて天狗に誘われた時、虚空を飛行して、大いなる高堂の甍(いらか)の上に私を置いた。
ここは、何処でしょうかと問うと、『京都の大仏のやねの上だ』、と天狗は答えた。
次に、天狗の住みかへ連れて行かれて、私の俗身を変え改めてさせられました。私は、飛べるようになり、超人のようになり、所々へ使者として仕えさせられました。それで、大坂の我が宅(いえ)の屋根の上にも時々来ました。私が家を出て百日目には、百ヶ日の仏事を家内で勤行するを、屋上にいてくわしく聞いていました。
それから、三年を歴ると、暇(いとま)をつかわすから家へ帰ってよい、と言われました。そして、金比羅の木像を頂き、又眼病の灸穴を教えてもらいました。
その後、明和卯年(8年。1771年)お陰参り(伊勢神宮参拝)流行の節、天満橋北詰にて、以前の天狗の主人に逢いましたが、
『いかに清兵衛。伊勢参宮の望みは、なきや。』と言われました。
『参り度く思います。』と答えた。
『それなら、すぐさま連れて行こう。』と言った。
往き帰りとも、私を馬にの乗せ、あるいは駕篭に乗せてくれました。
私に銭を渡し、『この銭を参宮の者達に施こすように』、と言いつけられました。
それゆえ、おしげもなく、参宮の者達にほどこして、もうお金は尽きたと思う時分には、又々銭を持ち来たって、与えられたので、どのくらい多くのお金か、わからないほど、参宮人に与えました。
さて、帰るのには、元の天満橋まで送ってくれた。」と語った。
私の父が、話のついでに、かの天狗の住所を聞きたいと言った。
清兵衛は、
「この事は、言うことが出来ません。もし、口外したならば、いますぐ私は、体が引きさかれます。」
と舌をふるわせて、恐ろしがった。
この清兵衛は、正直一途のものであったそうである。
2024.3
安永(1772~1781年)の頃、浪花に天狗の清兵衛と言う者がいた。
天狗に仕えた故に、このように名付けられた。
この者は、傘張りを業(なりまい)としていた。
私の父が、天狗の話をこまごまと問うた。
清兵衛は言った。
「初めて天狗に誘われた時、虚空を飛行して、大いなる高堂の甍(いらか)の上に私を置いた。
ここは、何処でしょうかと問うと、『京都の大仏のやねの上だ』、と天狗は答えた。
次に、天狗の住みかへ連れて行かれて、私の俗身を変え改めてさせられました。私は、飛べるようになり、超人のようになり、所々へ使者として仕えさせられました。それで、大坂の我が宅(いえ)の屋根の上にも時々来ました。私が家を出て百日目には、百ヶ日の仏事を家内で勤行するを、屋上にいてくわしく聞いていました。
それから、三年を歴ると、暇(いとま)をつかわすから家へ帰ってよい、と言われました。そして、金比羅の木像を頂き、又眼病の灸穴を教えてもらいました。
その後、明和卯年(8年。1771年)お陰参り(伊勢神宮参拝)流行の節、天満橋北詰にて、以前の天狗の主人に逢いましたが、
『いかに清兵衛。伊勢参宮の望みは、なきや。』と言われました。
『参り度く思います。』と答えた。
『それなら、すぐさま連れて行こう。』と言った。
往き帰りとも、私を馬にの乗せ、あるいは駕篭に乗せてくれました。
私に銭を渡し、『この銭を参宮の者達に施こすように』、と言いつけられました。
それゆえ、おしげもなく、参宮の者達にほどこして、もうお金は尽きたと思う時分には、又々銭を持ち来たって、与えられたので、どのくらい多くのお金か、わからないほど、参宮人に与えました。
さて、帰るのには、元の天満橋まで送ってくれた。」と語った。
私の父が、話のついでに、かの天狗の住所を聞きたいと言った。
清兵衛は、
「この事は、言うことが出来ません。もし、口外したならば、いますぐ私は、体が引きさかれます。」
と舌をふるわせて、恐ろしがった。
この清兵衛は、正直一途のものであったそうである。