枝廣淳子という方の話をラジオで聞いた。始めて聞く名前で、
アナウンサーが言っているのに、枝○○子と聞こえて、なかなかわからなかった。
29歳で本格的に英語を勉強し、同時通訳者、翻訳者、会社経営、NGO代表、
環境ジャーナリスト、等々の肩書きを持っている。
通訳、翻訳の仕事を通じて、異文化間コミュニケーションに深い関心を持ち、
活動の幅が次第に広がっていったと言う。
私も、レベルは雲と泥だが、手話を通して、ろう者と聞こえる人との文化の違いに触れ、
異文化間コミュニケーションに関心を持つようになった。
聴覚障害と言っても、聞こえの程度は千差万別で、まったく聞こえない人から、
意味を伝える音声としてではなく、音だけを感じるレベル、音声が少し聞こえるレベル、
とあり、その間も無段階に聞こえの程度が違う。
以前、福祉手当不支給の問題で関わったとき、「音声が識別できる」として、
福祉手当がカットされた人がいた。
この人は、雨戸にボールが当たった音と、雷の音は識別できないという。
大きな声で話していると、意味はわからないが、
大きな音として感じるという。
聴覚障害者は、そういう聞こえの状態に置かれている。
そのような聞こえの世界にいる人は、聞こえる人とは違う世界にいる場合がある。
違う発想をする場合がある。多くの事柄を目で見て判断する。
少ない情報しか提供しないということは、少ない情報で判断しろということだ。
少ない情報で判断する場合、聞こえる人も実は困っている。
最近の例では、原発、放射能の問題。情報が少なくて、不安に思う人が大半だろう。
聞こえず、情報が限られている人は、常時不確かな状態に置かれているということが、
理解できるのではないだろうか。
人は、他人の行動や考え方が理解できない場合、
自分の理解の仕方を再吟味するよりも、相手に問題があると考えやすい。
私も、そういう考え方から自由でないとの自覚はある。
ここで、枝廣さんの言葉に戻る。
人との関わりの中で、自分の考え方が、すぐに伝わらない場合がある。
そのような場合、「すぐに諦めず」、「相手に通じる伝え方を考える」ことが大切だという。
自分が信じていることを、どうしても伝えたいならば、どうしたら伝わるか、考える。
伝わらないからといって、すぐに諦めたり、言葉を探す努力をしない場合、
それほど自分の言葉を信じていないし、深く考えてもいないのではないか、と思う。
また、通訳、コミュニケーション、他人との関わり、原発、エコロジー問題と、
自分を狭い枠に押し込めず、必要に迫られて行動半径を広げてきた枝廣さんは、
「自分には何ができるんだろう」という発想を常に持ってきたそうだ。
誰にでもまねのできることではなく、私は足元にも及ばないが、
どうしたら伝えられるか、自分には何ができるのか、諦めずに考えながら、
ウォーキングをベースにして、会の活動を続けて生きたいと思う。