私は、古河駅東口、関口歯科医院の西側にあった長屋で生まれた。
生まれて数ヶ月で、今住んでいる場所に、父が家を買って移り住んだ。
買った家というのが、東京に住んでいた人が建てた家らしく、作りは田舎風だが、
間取りが東京風だった。中学生くらいになると、よく鴨居に頭をぶつけていた。
母に、東京にあった家を古河に移したのかと聞いたが、覚えていないという。
ただ、古い家を買ったということは覚えていた。
間口一間、奥行き二間くらいの土間があり、ここで餅つきをした記憶がある。
また、子どもの頃飼っていたハツカネズミをこの土間に置いていたことも覚えている。
弟が生まれる時は、台所の南側にあった三畳間で父、叔母と待っていた。
ここは食事をする部屋で、小さな押し入れがあり、そこには米びつが入っていた。
鴨居のあたりには、ラジオが据え付けられていた。ここから好きな歌が流れてくると、
走って帰ってきたそうだ。弟は美空ひばり、私は島倉千代子だった。
一丁目一番地(1957~)や、赤胴鈴之助(1957~)もこのラジオで聞いた。
台所の東側には井戸があり、手押しポンプを使っていた。
風呂の水は、最初この井戸で汲み、大きな手桶で運んでいた。
運ぶのはたいへんだということで、ポンプの先にブリキの太い管を付け、
風呂桶まで伸ばしたので、以後ずいぶんと楽になった。
水場の近くということだろうか、井戸の近くに七輪を置きサンマを焼いたり、
冬は練炭に着火するために使った。
また、ここは鶏をさばく場所でもあった。腸に入ったたくさんの卵や、
父から逃げる鶏を目撃したのもこの場所だった。
ただ、これらの記憶と、現在の井戸の位置がまったく一致しないのが不思議だ。
記憶では。東から井戸、台所、風呂場という順に、位置しているのだが、
今玄関前にある井戸は、記憶にある場所よりも、ずっと西にあり、
井戸と風呂場の間隔があまりにも近い。2~2.5mくらいしかない。
ここに台所があったというのがどうもぴんとこない。
母に、井戸を移動したのかと聞いたが、移動していないという。
結局、台所がかなり狭かったということになる。
子どもの距離感というのは、あてにならないということなのだろう。
小学生の頃、親戚の高校生は全くの大人だった。今は、子どもとしか思えないが、
今の子どもからすれば、やはり高校生は大人なのだろう。
時間の推移の中で記憶は変容し、間違って記憶されている場合もあるだろう。
間違って記憶している場合があることは、想像できた方がよいと思う。
可能性を想像できれば修正できる。
どんな場合でも、かたくなな生き方をしないために、想像力は持ち続けたい。
できれば、創造力もあればさらに良い。