久しぶりに、藤沢周平全集第23巻所収、「小説の周辺」をちらほらと読み出した。
藤沢の妻は、一緒に出かけるのを好まない。
藤沢と「一緒に喫茶店に行くと、結局は飲み物を注文したりお金を払ったり、
私がぼんやりしていれば砂糖まで入れなければならない」…そうだ。
私のように自立した?人間から見ると、「えっ うそっ、そんなこともしてもらうの?」
というところだ。
他人の夫婦関係にいちゃもんをつけるつもりはないが、自立した人間を描く作家が、
自分の生活では、身の回りのことを世話させていることに違和感を持った。
実生活と作品世界は必ずしも一致せず、
いずれも独立していると思った方がよいのだろう。
一致しているべきだとは言えないだろうことは、何となくわかる。
会社では、大きな仕事をしている人も、家庭では靴下を履かせてもらい、
家庭の実務は何も知らない人がいるのと似たようなものだろう。
その稿の先の方で、こんなことを書いている。
「たとえば感動的な小説を書けても、
目の前で歩道に落ちた子供を拾い上げられないうようでは、
人間として役立たずだと私は思っていたのである。」
これは、老化を自覚したという話の流れの中で書いているのだが、
「気がついているんだっ」と思わせる言葉である。
仕事となれば、その仕事にふさわしい判断、行動がとれ人が、自分の家族となると、
適切な対応がとれないことがある。
仕事と生活を一致させた極端な例が、三島由紀夫だろうか。
ならば、娘にたしなめられる父であっても良いとしよう。