『江戸末期のたたずまいを残し、妻入商家が立ち並ぶ河原町の通りを200メートルほど行くと、いかにも禅寺らしい観音寺がある。ご本尊は、仏師春日または定朝の作という釈迦牟尼如来坐像(しゃかむににょらいざぞう)であり、丹波西国観音巡拝第16番札所になっている。
永禄5年(1562年)、波多野晴秀(晴通)公は、かねて崇敬していた知足村西山麓(今の観音寺谷というところ)の観音堂を八上城下に移築のうえ、母の秋臨院殿葉山妙紅大禅定尼要山玄的大和尚の高弟嶺玖(れいきゅう)和尚を開山として観音寺を創建したのが、当寺のはじまりである(今も、八上に観音寺屋敷の地名がある)。
篠山に築城後、この地に移されたが、寛文10年(1670年)正徳4年(1714年)、享保5年(1720年)と焼失し、その都度再建された。
観音寺の木造十一面観音立像は、平安期の作で、もと東新町割場の観音堂にあったのを奉安したものであり、古くは、三岳の寺院にあったと言われている。また、篠山城大書院の障壁画や、南画の平地藍岳の襖絵がある。最近、山門と観音堂が立派に改修された。』(「改訂ふるさとの探訪」より)
永禄5年(1562年)、波多野晴秀(晴通)公は、かねて崇敬していた知足村西山麓(今の観音寺谷というところ)の観音堂を八上城下に移築のうえ、母の秋臨院殿葉山妙紅大禅定尼要山玄的大和尚の高弟嶺玖(れいきゅう)和尚を開山として観音寺を創建したのが、当寺のはじまりである(今も、八上に観音寺屋敷の地名がある)。
篠山に築城後、この地に移されたが、寛文10年(1670年)正徳4年(1714年)、享保5年(1720年)と焼失し、その都度再建された。
観音寺の木造十一面観音立像は、平安期の作で、もと東新町割場の観音堂にあったのを奉安したものであり、古くは、三岳の寺院にあったと言われている。また、篠山城大書院の障壁画や、南画の平地藍岳の襖絵がある。最近、山門と観音堂が立派に改修された。』(「改訂ふるさとの探訪」より)