【第一回 里見季基、遺訓を残して義に死す/白龍、雲の間を飛んで南に向かう】
京の室町将軍と鎌倉の公方の勢力が衰え、独善的となったことにより、世の中が戦国となったころ、東海の果てには困難を避けて、国を興し領地を開発し、子孫を十世に続くまで房総の国主となった里見治部大夫義実朝臣がいた。
里見義実の出自について調べてみると、義実は清和天皇の末裔、源氏の嫡流である鎮守府将軍八幡太郎源義家朝臣から十一世の里見治部少輔源季基の嫡男、である。
時に第四代鎌倉公方の足利持氏卿は、関東における独立を目論み、関東管領上杉憲実が諫めても聞き入れず、第六代室町将軍足利義教公に反乱を起こした。
都からの官軍が俄かに押寄せた。官軍は上杉憲実に力を貸して勝利し、足利持氏父子を鎌倉の報国寺に押込めて、詰め腹を切らすこととなった。
後花園天皇の1439年永享十一年、二月十日のことである。
足利持氏の嫡男義成は父とともに自害して鎌倉に果てたが、二男春王、三男安王という若君たちは辛くも敵軍の囲みを逃れて、下総へ落ち延びる途中、結城氏朝が二人を主君として迎えいれた。
結城氏朝は京都の幕命に従わず、関東管領方の上杉清方、上杉持朝の大軍をものともしない。里見季基を始めとして、死を恐れない足利持氏恩顧の武士たちは、自ら集って、結城城を守り、大軍に囲まれてながらも一度も不覚を取らなかった。
1439年永享十一年の春から1441年嘉吉元年の四月まで籠城は三年に及んだが、他に援軍も来ず、とうとう食糧も矢種も尽き果てようとしていた。
「もはや逃げることもできない。ただ敵諸共に死ぬうぞ」
と、結城一族、里見主従は、城門を開いて血戦を挑み大勢の敵を倒したものの、城方は皆討死にし、遂に落城した。
二人の若君は生け捕られ、美濃の垂井にて処刑された。
これが俗にいう結城合戦である。
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この時、里見季基の嫡男、里見治部大夫義実は又太郎御曹司と呼ばれていて、年齢はまだ二十歳にはなっていなかったが、武勇知略は父や先祖にもまして劣らず、文学や歴史にも詳しかった。
この三年、父とともに籠城の苦しみにも耐えて、この日も先頭に立って、敵の軍勢を十四、五騎を斬って落とし、更に良い敵を求めて進んでいく。
父の季基は遥か遠くからその姿を見て、急に息子を呼び返した。
「義実、勇士は死ぬことを恐れず、今日を最期と思うことは道理ではあるが、父子ともに討死にしてしまうことは、ご先祖への最大の不考となる。京や鎌倉の敵となっても決して味方を裏切ることはなく、とうとう力尽き、今日落城するだろう。この父は節義のために死ぬ。が、子は親のために逃れて、一命を長らえても何を恥じることがあろう。お前は速やかにここを脱出して、時節を待って家を再興せよ、何とかして落ち延びよ」
父は脱出する様に子を諭すが、里見義実はまったく聞き入れずに、鞍に頭を垂れながら言った。
「到底承服できません、おめおめ私だけ逃げることなど、幼い子供でもいたしません。弓矢の家に生まれて、私はすでに十九才、文武の道も多少知り、侍の道理を大方分かっています。今はただ冥土黄泉へのお供つかまりたく。死すべきところで死なずして、敵の笑いを招いて、先祖の名を辱めることなどできません」
返答は勇ましかった。
里見義実の顔をつくづく見ていた父は何度もため息を吐き、
「義実、よくぞ申した。だが僧となり出家すると言うのであれば、親の教えに背くが、時節を待って家を再興せよというのを拒むのは不孝であるぞ」
季基は続けた。
「お前も知っている通り、足利持氏公は代々の主君ではない。そもそも我が祖先は一族である新田義貞朝臣に従って、元弘の変や建武の新政に戦功があった。新田党は南朝の忠臣であったが、1392年明徳三年の冬の始めに明徳の和約に基づき、南北朝合一によって、後亀山帝が京に還幸なされた。身を寄せていた南朝自体がなくなってしまったため、心ならずも鎌倉の関東公方である足利家の招きに応じたのだ。亡父(里見大炊介元義)は足利満兼公(足利持氏の父)に仕え、私は持氏公に仕えて、今幼君の春王様、安王様のために死ぬ。志はもう尽くしている」
里見家の歴史を説明し、父は語った。
「この理屈をわきまえずに、ただ死ぬというのは武士とは言えまい。学問を修めていたとしても無駄というものだ。ここまで申しても父の言いつけを聞かないと言うのであれば、もう私を親と思うな、お前は子でもない」
激しく叱れば、里見義実は父の申す道理に責められて、思わず落とした涙は馬のたてがみへ、地面へ。
親と子が直面した生死の別れの時に、大きな鬨の声が聞こえた。
こちらへ向ってくる敵軍を季基はきっとにらみつけ、
「これ以上遅くなってはかなわん」
と予てから指示を言い聞かせていた譜代の郎党の杉倉木曽介氏元、堀内蔵人貞行の二人に合図を送った。
二人は同時に身を起こし、
「我らはお供仕ります、いざこちらへ」
と言い、杉倉氏元は里見義実の馬の轡を取り、堀内貞行は馬の尻を叩いて走らせ、西の方角を目指して急いで落ち延びていく。
昔、楠木正成が桜井の宿から我が子正行を帰らせた心と同じであろうと想像した里見の兵たちは、悲しい思いに耽った。
里見季基は落ちていく我が子をしばらく見送ってから、
「思い残すことはない、では最期を急ぐとしよう」
と言って、手綱を操り馬の向きを変えて、十騎にも足らない残兵を鶴翼の陣に整えて、群がってくる大軍へ名乗りもせずに突っ込んでいく。
勇将の下に弱卒なく、主人も家来も二騎三騎と敵を倒していく。願うところは、「義実を無事に落ち延びさせる」以外になければ、目に余る大軍を少しも進ませず、味方の死骸を踏み越えて、敵と組み合っては刺し違え、同じ枕に伏せていく。
大将季基は元より、八騎の従卒は一人残らず皆、乱軍の中に撃たれて、血潮は野原の草葉を染めていく。死骸はあちこちに倒れて、馬蹄の塵に埋もれていくが、名は朽ちることなく、都にまで響く勇敢なる武士の激しい最期であった。
しばらくしてから里見冠者義実は杉倉氏元、堀内貞行に導かれて、十町(約1キロ)あまり落ち延びた。
「しかし父君はどうしておられるだろうか、心配だ」
何度も馬の歩みを止めつつ、里見義実の見返す方角には鬨の声、矢の音がやかましい。
もはや結城は落城したと思われるほどに、猛火の光が天を焦がしている。
里見義実は呻き声をあげ、手綱を引き絞って、城へ引き返そうとするが、二人の郎党が左右から轡にすがって進ませないとする。
「何ということなされます。今更、何をお考えか。大殿の教訓を何とお聞きになったのでしょう。今から落ちた城に戻って、大切な御身を失うことなど、古の歌のにも詠める、飛んで火に入る夏虫、よりも空しい行為ですぞ。大孝は孝なき如し、と古人の金言を日頃から口にされておられるではないですか。おおよそご身分が高くても低くても、忠孝の道は一つしかないのですから、迷ってはなりません、今は落ちることのみお考え下さい。どうかこちらへお進み下さい」
と馬を引くが、心も揺れる孝子は嘆き悲しみ、焦燥した声を激しくさせて、
「離せ貞行、止めるな氏元。お前たちの諫言は親の心と同じだが、今これを我慢することが、人の子と言えようか、離せ、離せ」
鞭を上げて打っても、二人の忠臣の決意は固く、手を少しも緩めず、鞭で打たれても構わずにいた。
馬壇、鞍懸、柳坂と進むにつれて、煙は遠ざかっていく。ひのき林の辺りで勝ち誇った鎌倉勢が二十騎あまりが追い掛けてこようと現れた。
「ご立派な武者振りだが、逃げ足が速いものよ。緋縅の立派な鎧を着て、五枚兜の鍬形の間に輝く白銀の輝き、中黒の紋を打った貴様を大将と見るのは見間違いか。卑怯者よ、取って返せ」
【中黒紋】
と挑発し、呼び掛けてきた。
里見義実は少しも躊躇しない。
「うるさい雑兵ども、お前たち敵を恐れて走っているのではない。取って返すのは難しいことがあるものか」
と叫ぶや馬をきりりと立て直し、太刀を抜いて進んでいく。
大将を撃たせまいと、杉倉氏元と堀内貞行は推し並んで、敵の正面に立ち塞がり、槍を捻って突き崩す。
里見義実もまた郎党を失わせないと馬を操り、前後を争う主従が三騎、大勢の中心へ十文字に駆け巡り、次には渦巻状に取っては返す。
鶴翼に連なり更には魚鱗に打ち巡っていく。西に当たっては東に靡き、北を撃っては南に走らせて、敵の馬の足を進ませない。
中国の三略の秘法、八陣の法、三人ともに知っている軍略で、ただいま目前にいるかと思えば、忽然として後ろに下がり、大奮戦。秘術を尽くし、千変万化に太刀を振るうことによって、風が起こり、さしもの大勢も乱れ騒ぎ、退いていく他なかった。
敵が退いていくので、杉倉氏元らは主人を諫めて落ちていく。更に追ってくる端武者を遠矢で射って落とし、林原を三里(約12キロ)ほど進み、遂には落ちていった夕日の後は、十六日の丸い月が照らすのだった。
ここからは追ってくる敵もなく、主従は奇跡的に危機から逃れて、その夜は粗末な家に宿を求めることができた。
朝の出発時には、馬と道具を主に渡し、姿をやつして笠を深く被った。東西すべて敵地ではあるが、目指す方向の相模路へ走りつつ、三日目にしてようやく三浦の矢取の入江に到着した。
食べ物もなく路銀も乏しい落人となり果てた主従は、酷く飢え疲れて、松の根に座り込み、かなり遅れてしまった堀内蔵人貞行を待つことにした。
差し迫った危険の中でも、見渡す先は入り江に続く青海原、波静かにして白いカモメが浮いている。
頃は卯月(四月)の夏霞で鋭く削ったような鋸山が見えていた。
長い浜辺への旅は心が折れそうで、雨降る漁村の柳、夕方に遠く鳴る寺の鐘、いずれもわびしさを感じさせる。こうしてばかりもいておられず、港を渡ろうと急ぐものの、一艘の船も見当たらなかった。
その時杉倉木曽介氏元は、粗末な家で干した魚を取り入れている漁師や海女の子供を手招きして、
「のう、子供たちに聞くが、向う側へ渡る船はないかね?後、慣れない港を彷徨って空腹なのだ、私はともかくこちらの方へ食べるものがあれば分けてくれないかね」
と優しく言うと、子供たちの中から十四、五才に見えるいかにも悪童が、赤熊のような髪を潮風になびかせて、髪が顔に掛かるのもそのままで、
「馬鹿なことをいう人だなあ。打ち続く合戦で、船は全部借り上げられてしまって、漁だってできやしない。向こう側に人を渡すことなんか、誰ができるんだよ。塩よりもしょっぱい世の中は、俺の腹一つ満たさないっていうのに、全然知らない人の飢えを満たす食べ物なんかあるもんか」
と毒づき、更に
「腹が減って我慢できないなら、これでも食らいやがれ」
嘲って土くれを掴んで投げてきた。
杉倉氏元は素早く避けたので、土くれは松の根に座り込んでいた里見義実の胸先へ飛んできた。里見義実は左の方向へ身をそらし、右手でそれを受け止めるのだった。
悪童の憎々しい行いに、杉倉氏元は我慢できず、眼を見張って大きな声を上げた。
「馬鹿者、漂泊の身の上であるから、一碗の飯を乞うたのだ。飯がないのであれば、ないとただ言葉にすれば良いものを、無礼なる所業は許せん。その首を切り裂いて思い知らせてくれよう」
と息巻き、刀の柄に手を掛けて走り出そうとすると、里見義実は急に呼び止めた。
「木曽介、大人げない振舞いをするな。麒麟も老いては鈍い馬に劣ると言う。昨日は昨日、今日は今日、寄る辺のない身を忘れたのか。彼らは敵ではないぞ」
里見義実は続ける。
「つらつら考えるに、土は国の基本だ。私は今安房に渡ろうとしているが、天が安房を私に与えようという兆しではないか。悪童が無礼を働いたことを憎むまい。これを吉兆として喜ぶべきだろう。中国の晋の文公重耳の五鹿での故事に似ている。祝うべきだ祝うべきことなのだ」
自ら祝って、土くれを三度手に取って頭にかざし、懐に収めるた。
杉倉氏元もそれに従って刀の柄に掛けた手を離し、怒りを収めた。行く末が頼もしき主君を誇らしげに仰いだ。
漁師や海女の子たちは手を叩いて、いよいよ嘲るのだった。
その時、磯山に雲がむくむくと湧き立って、にわかに空が暗くなった。潮水がしきりに上方に遡って巻き上げられていき、風が強く吹いている。雨はしきりに降り、電光が絶え間なく光り、雷鳴さえ凄まじくなり今にも落ちてきそうになった。子供たちは騒ぎ出し、それぞれの家の中へ入ってしまった。
中から家を閉じてしまったので、叩いても開けそうもない。
義実主従は雨宿りする手立てがないので、松の下で笠をさして立ちすくむしかないのだった。
風雨がますます激しくなり、、空の明暗が激しくなり、波は寄せては砕け、砕けてはまた帰っていく。と、駆け巡る雲の中に何かがいた。
眩しい光の中、忽然として白龍が顕れ、光を放ち、波を巻き立てて、南を目指して飛び去って行った。
【義実、三浦で白龍を見る】
一番右が里見義実、左は杉倉氏元、船上は堀内貞行、真中上部が白龍
しばらくすると、雨は晴れ雲は穏やかになる。日は沈みながらも、まだ影はなお海辺に残って波を彩っていた。松の枝の雨の雫は、吹き払う風に散らされる玉となり、砂と石の中に散っていく。
山は遠く、緑は深く、岩は青く、まだ乾かずに濡れたままだ。
素晴らしい絶景であったがさすらいの身の上であれば、楽しめない。
杉倉氏元は義実の衣服の濡れた雫を払いながら、到着が遅れている堀内貞行に思いを馳せ、到着を今か今かと待っている。
と、里見義実は海を指さして、
「雨が激しく降って、荒れた波の間に立ち込めた村雲が駆け回り、あの岩の辺りから、白龍が昇っていったのを木曽介は見たか」
問われてかしこまりながら、
「龍かどうかは分かりませんでしたが、怪しいものの足かと思われます、輝く鱗のようなものを少し見ました」
と言えば里見義実はうなづき、
「そうだ、そのことだ。私は尾と足だけを見た。全身を見れなかったことが残念だ。そもそも龍は神の化身だ」
里見義実は龍の講釈を始めた。
「昔の人が言うには、龍は立夏の節(今の5月5日ごろ)を待って区切りとして雨を降らす。今はちょうどその頃だ。また龍には種類が多い。白龍が吐いたものは地面に落ちると黄金になるそうだ」
龍の話は際限なく続いた。
「大いなる龍の徳は、占いの道においては君主を示す。神聖なものなのだ。龍の種類は数多く、人で言えば知恵がある者と知恵がない者。天子とそうでない者もそうだ。龍は威徳で百獣を威圧でできるし、また威徳で百官を率ることができる。故に天子には袞龍(こんりゅう)という中国風の礼服がある。天子のお顔を竜顔と称え、お身体を龍体と唱え、お怒りになることを逆鱗と言う。皆これは龍に象徴されるのだ。龍の徳は数え切れぬものなのだ」
里見義実の話は佳境に入った様である。
「今、白龍は南に去って行った。白は源氏の色だ。南は即ち房総、房総は皇国の果て。私は白龍の尾を見て、頭を見ていない。ただ房総の地を領有したいと思っている。そなたは龍の足を見た、これは私の股肱の臣であるということだ。そうは思わぬか」
と細かく和漢の書を引き、故実を述べ、自分のことさえ考えてくれている里見義実の英知に、杉倉木曽介氏元は深く感銘した。
「武門の家に生まれて、血気にはやるだけのつまらない勇気を誇る者は多くございます。兵書兵法に通じる者は、今の時代には少ないというのに、うら若きお年で、人も見ない書をいつの間に読み尽くされたのでしょうか」
杉倉氏元は心の底から言うのだった。
「元から博識なのは天のなせる業か、誠にご主君は良将でございます。今こそ申上げますが、結城にて死ななかった私、氏元は、最初は無念と存じていました。が、今は命があることで、めでたく今日の様なことに遭う、喜びは正に申上げ様もございません。主君の行く末頼もしきことに」
さらに杉倉氏元は言う。
「ともかく日は暮れ果ててしまいましたが、この入り江で夜を明かしましょう。安房へお供仕る、とは思いましたが、船はございません。天気は良くても宵闇に月を待つ道中は誠に不便で、苛立ちます。船がなければどうしようもございません」
杉倉氏元は嘆いた。
「遅れてくる堀内貞行が今になっても参らないことは、非常に訝しいことです。富貴には他人も集まり、貧しい時には妻子も去っていくと申します。人の誠に常、はございませんので、実は、彼は逃げたのかもしれないと疑わしく思ってしまいます」
と言いながら眉をしかめれば、里見義実はにっこりと笑って、
「そんな風に疑うな木曽介。郎党若党が多くいた中で、彼とお前は、特別に父上がお選びになったのではないか。私もまた貞行の人となりは良く知っている。苦難に臨んで主人と朋友を捨て、逃げ隠れる者ではない。今しばらくここで待とう。もうすぐ月も出るころだろうに」
と広い心を示す様に言った。
海から出てくる十八日の月も美しかった。押し寄せる波や黄金を集めて宝玉が散りばめられたような海は、竜宮城であるかの様だ。
主従は額に手を翳し、思わず木陰から離れて、波打ち際に近寄った。
そこへ一隻の早舟が岬の方から漕いで近づいてきた。
「こちらへ向かっているのか」
と見ているうちに、早船は矢のように早く接近し、船の中から大きい声が聞こえた。
「契りあれば 卯の葉葺ける 浜屋にも 龍の宮姫 通ひてしかな」
契りがあるので、空木の葉で葺いた浜屋であっても、龍の宮簀媛(みやずひめ)が通って来るのだなあ
と口ずさまれた仲正歌集の中の古歌一首を船頭と水夫は何も知らないのか、船はただ浜辺に漕ぎ着けた。歌を口ずさんだ人が船をつなぐ綱を砂の中へ投げ掛ける。
その身をひらりと陸へ立ち上ったのは、堀内蔵人貞行だった。
「これはどうしたことか」
と里見義実と杉倉氏元の主従が聞きたそうにする。二人は元の樹の下に座り込むと、堀内貞行は松の枝を敷いて膝を地面に着けて、
「先に相模路に入った時に、安房への渡海が難しいと耳にしていましたので、近道をしてあちらこちらの漁師に渡ってくれる様に頼んだのですが、船をなかなか出してくれません」
さもありなんと義実はうなづいた。
「どうにか岬に赴き、何とか漁師の船を借りることができましたが、主君が空腹ではないかと思いまして、飯を炊かせておりましたら、雷雨が激しくなってしまいました。思いがけず日が暮れてしまい、この様に遅参してしまったのです。最初にこのことを申上げなくては、ご不審にお思いなられると思いまして」
と言うのを、里見義実は聞き終わらないうちに、
「思った通り、それ言わんことではないか。私は言うまでもなく木曽介もこの辺りに船があるかどうかなど、一切考えていなかった。もし蔵人貞行がいなければ、今宵どうやって安房へ渡れようか。機転が廻る者よ」
とただひたすらに感心して褒めれば、杉倉氏元は額を撫でて、
「人の才能の長短はこんなに違うものか。蔵人、こんな時には疑念が起こってしまうものだ。我が心の浅瀬に迷ってしまい、私は深い思慮のあるそなたを軽蔑してしまい、実は今まで悪口を申していたのだ」
と笑いながら告白すれば、堀内貞行も腹を抱えて笑い出した。
「本当に隔てのない侍の交わりは、この様でなくてはならない」
と里見義実も共に笑いあった。
こうして義実は蔵人貞行に対して、
「私は海の向こうに渡れずにここでお前を待っている間に、悪童たちから土くれの賜物があり、また白龍の祥瑞があった。船上にて語ろうよ」
と言う声を聞いて、船頭は手を挙げて、主従を招き、
「月も良く出ました。風も良いです、さあ、早く船にお乗り下さい」
と促すままに主従三人が乗れば、小さな丸木舟は揺れるのだった。船頭はともづなを手繰り寄せて、竿を操って、今はうたかたの安房に向かって漕ぎ出していった。
(続く……かも)
2023年1月17日、再意訳。