クローバー 匍匐(ほふく) 福福

末梢神経鞘腫瘍で右前足と肩甲骨を切断したココのことや身の回りの出来事など日々感じたことを発信します。

今年も波瀾万丈!

2023-12-31 19:37:57 | 家族
2023年もいろいろ、いろいろありました。 


<母>

上の写真は母が30代の頃でしょうか?こうして働きながら3人の子供を育ててくれました。

酷い対応の施設から新しい施設に変わることにしました。

1月末、施設を探している時にたまたま我が家の近くで母の面接があったので、1年8ヶ月ぶりに我が家に2泊3日で泊まることになりました。外泊できることは知りませんでした。
早く知っていれば、もっと外泊できたのにと思います。

母は玄関に入るなり、人懐っこく側に寄ってくるココを見て大感激!
「ココは可愛い!」と言ってずっと抱っこしていました。

でも、寝る時、私は母に抱かれているココを自分の方に引き寄せてしまいました。
どうして我慢できなかったのか、今となっては一晩中ココを抱かせてあげたら良かったととても悔やんでいます。





4月に新しい施設に移りました。





2階の奥の部屋でした。
東南の角で日当たりもよく、窓から見えるのは広い駐車場で圧迫感のないところでした。直接は見えませんが母が前に住んでいた家の方向です。

食べなくなったと施設から連絡があり、好きなものを持って行きましたが、全く手をつけず、様子がおかしいことから病院で検査を受けました。
食道と胃の接合部に4cm大ステージⅢのがんが見つかりました。

91歳だけど元気そうだということで手術をすることになりました。
手術の目標は『お寿司を食べること!』
何とか食べられるようになってほしいとの願いも叶わず、10月2日に旅立ってしまいました。





6月13日手術をする8日前の母です。とても美味しそうに全部飲み干しました。

急性期病院は必要な治療が終われば、長くはいられないと言うことで長期療養型の病院に移りました。

主治医の言っていること、やろうとしていることがよく分からず、コミュニケーションがうまく取れませんでした。

亡くなった日も14時頃、喉の下が大きくへこみ、息が苦しそうだったので看護師に伝えると酸素濃度を増やしてくれました。その後4回呻き声をあげたので、主治医に「今にも逝きそうに思う。」と伝えると「出来ることはもうない。」と言われ、帰ることにしました。

16時41分に「もう危ないので至急来るように。」と電話があり、用意をしていると45分に「もう、間に合わないかも分からない。」と。

タクシーで病院に向かいましたが、母の顔を見て、もう生きていないと直感しました。
その後、主治医が脈を取り、「17時11分、ご臨終です。」と言われました。死因は老衰でした

人が死ぬ時がいつかはなかなか判断のつくものでないことは分かりますが、今までの医師とのやり取りもあって、14時過ぎにそろそろだと思うので、もう少し残ってはどうかと促したり、もっと早く息を引き取りそうか判断できなかったのかと無念な思いが今でもあります。

また、亡くなったところは、今までいた病室でカーテンだけで仕切られた4人部屋でした。

医師や私たちの声が同室の人にも聞こえていたと思います。どんな思いで聞いていたのでしょう?自分だったら、どんな気持ちになるでしょう?

終末期の人たちだからこそ、配慮が必要なのではないかと思いました。

施設に入った後、コロナであまり面会ができなかったからか、亡くなった今でも、母がいなくなった実感がどうしても湧いてきません。

今も4月に転居した施設にいるようで、ベッドで手を振る母の姿が思い浮かびます。








<ココ>

2022年9月、悪性腫瘍で右前足を断脚したココ

[5月]
ココを抱いて寝ている時に心臓が小刻みに震えたことから病院に連れて行くと「ペースメーカーをつけなければいけないかも分からない。」と言われました。

去年、ホルターをつけるなどして心臓の検査をしたと伝えるとそれ以上言われませんでした。





[6月]
1月ごろから時々キャンと小さな悲鳴をあげるようになり、気になるたびに動物病院に連れて行っていましたが原因がよく分かりませんでした。
ココの痛がっている場所が分かる動画を見せると足を手術した病院でMRI検査を受けるように言われました。

検査の結果、「再発の可能性がある。」と言われ、その上、ココと同じような病気で手術した犬20頭のうち半数は1年以内に亡くなる。短くて3ヶ月、長くて43ヶ月と言われました。





病院からの帰りのココ


[7月]
ココの後ろ脚がフラフラするようになりました。




しばらく、あまり歩かせないように言われ、なるべく歩かせないようにしているとだんだんフラフラしないようになってきました。

その後は、吐いたり下痢をすることはたまにありますが元気です。
食欲がとても湧いてきて完食することが増えてきました。


ブログに何度も書かせていただいていますが、ココを可愛がったり、応援したりしてくださっている皆さんのお陰と心から感謝しています。




<私>

今年もいろいろなことがありましたが私の精神疾患は少し不安定になったことはありますが、ほとんど発症していません。

でも、正常な状態だったらもっと辛い思いや悲しい思いをするだろうと思う場面でも心が動かないというか平坦な感じがします。

母が癌になったことを親戚に伝えたときも「どうして、こんな時にそんなに声が元気なの?」と言われました。人としての感情が希薄で悲しく思うこともあります。

精神科の医師に何度か薬を減らしてほしいと伝えましたが「何かあったときに発症しないように薬を飲んでいる。」と言われます。

また、ふらつきや手の震えもどんどん強くなってきて、不便なことや怖いと思うことがあるのですが「ふらつきは自分で気を付けられるが、精神の症状は薬でないとコントロール出来ない。」とのこと。

物忘れがあまりにも酷くなって、日常生活に支障が出て来たので、希望してテストを受けましたが、認知症かどうかを判断するもので私が日頃困っている物忘れについては判定されないものでした。

医師からは「70代でそれだけできたら上等!」「努力が足りない。」と軽くあしらわれてしまいました。





あとは脊柱管狭窄症などの整形外科のことですが、自転車を意識的に乗ることで少しですが楽になって来て希望が持てて来ました。ただ、がんばりすぎて腰痛が強くなって来たので、少し加減をしなければと思います。

最近、背中の右側が痛くなって来たので、紹介され、急性期病院へ行きました。腎臓を調べることになり、検査を受けました。結果、腎臓には問題がないことが分かりホッとしました。

CTの画像から側湾症からの痛みだろうとのことでした。
いろいろ、次から次とありますが心は穏やかです。





私はココとこうしている時が一番幸せです。

ただ、こうしてぬくぬくとしていると戦時下の人たちのことがとても気になります。

とくに精神疾患のある私としてはいつ死んでしまうかも分からないという恐怖の中でどのような精神状態なんだろうとか薬が手に入らないことで症状は大丈夫だろうかとやるせない気持ちになります。

来年は希望の年になりますように!



<二つ葉のクローバーの花言葉は平和、調和、素敵な出会い>

今年も一年、読んでくださってありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

弟の死

2021-06-19 21:23:01 | 家族
6月12日、弟が旅立った。64歳、肺がんだった。

亡くなる少し前、「残念やけどお姉ちゃんより先逝くわ!」
と言っていた。
「残された時間は年単位だと思っていたけど、月単位だと思う。」
と言ってから約半月、呼吸を楽にするための入院だったが
家に戻ることは出来なかった。

父は肺気腫で酸素吸入の器機に慣れるためということで入院したが
あれよあれよという間に亡くなってしまった。

弟は今回の入院で
父のようになるかもしれないと口にしていたそうである。

前日、家族としっかり話が出来ていたのに次の日急変し、
息を引き取った。



弟は三人兄弟の末っ子として生まれた。
とても、しっかりしていて頼りがいがある弟だったが、
やはり子どもの頃は甘えん坊で、
よく上の兄と夜寝るときに母を奪い合った。


あだ名が『おったかパイパイちゃん』だった。



小さい頃、ねじ回しが好きで「ネジマーチュ」と言って、
何にでもねじ回しを差し込んでいた。

ある時、コンセントに突っ込んでしまい感電したことがある。

私も小学3年生までオネショをしていたが、
弟はもっとで、6年生の修学旅行は家族中ヒヤヒヤした。



後ろのサーフボードは兄のものだが、
本人も兄と一緒に波乗りをしていた。
スキューバダイビングは最近までやっていた。
釣りも好きだった。

中学校ではアマチュア無線のクラブに入っていたが、
コンピュータ等のハード系の会社に就職した。



恋をして…


家族が出来た。

忙しい中、よくスキーや遊園地や海水浴などいろいろなところへ
連れて行っていた。

子どもたちからは 他のどの家族よりも多かったと思うと。



これは17年前のUSJ。
私も一緒に行った。

一時期、ディズニーランドの近くに住んでいたことがあり、
私も何度か行くことが出来た。

弟は旅が好きで海外にもよく出掛けていた。
マチュ・ピチュやモン・サン=ミシェル、
アンコール・ワットなど。

何年か前、日本の世界遺産は全て行ったと嬉しそうに話していた。



毎日散歩し、いっしょに寝ていたきり丸。
世界遺産の旅の知床にも連れて行った。
私の家にもいっしょに来たことがある。



これは我が家が引っ越した記念の植樹。
単身赴任で隣接県に住んでいたのでよく母に会いに来ていた。
気前がよく、テレビやパソコンなどを買ってくれた。

とても器用でいろんな所の修理をしてくれた。
(自分の家では業者いらずで何でも直したが
ビルトインコンロを入れ替えて注意を受けたことも。)

料理も得意で、あるものでささっと作ってくれた。

とにかく、身が軽かった。
(体重は110㎏を優に越えていたが…)

弟は会社で役員になったがその任が重かったのか、
長い間、「辞めたい、辞めたい」と言っていたが、
ある日、突然仕事に行けなくなった。


これは4年前の家族写真。
二人とも母のところからは遠く、別々にはよく来てくれていたが、
久しぶりに揃った。

 
        2020.8.15
田舎のお墓参りも毎年行ってくれていた。
結構、遠くて大変だったと思う。



おととしの次男の結婚式の時の写真。
まさか、2年後にこの世からいなくなっているとは
誰も思っていなかった。
でも、癌はこの頃には出来ていたと想像する。

タバコを吸っていたのでよく咳込んでいた。
間質性肺炎ということで治療を受けていた。



昨年11月、弟からメールが来た。
肺癌が見つかったがすでにステージ4で抗がん剤治療を開始したと。

何度も辛い抗がん剤治療を受けたが、
酷くなるばかりで
最近では「息が苦しく溺れているようだ。」と話し ていた。



今月8日に呼吸が楽になるように理学療法を受けるからと入院。
少しでも楽になることを期待していた。

食べられなくなって
みるみる体重が落ちていった時、
「喜んでいる自分がいて複雑な心境だ。」と言っていた。

入院して4日後に突然旅立ってしまった。

友人が「死はあっけらかんとやって来る。」
と言っていたがまさにその通りだった。



母には弟の病気のことは言っていなかった。
その事を本人に言うと
「いいよ。僕が少しでもよくなったら、
そっちに行って僕から話すよ。」
と言っていた。
そう出来ることを励みに病と向き合っていたのだろう。

今年の母の日には動画でメッセージを送ってくれた。
治療で浮腫んだ顔を見て、母は「太ったねえ。」と言っていた。
こちらからも弟に母のお礼のメッセージを動画で送った。

亡くなったことを母に伝えるかどうか、もう一人の弟に相談すると
「今は施設に入ったばかりで落ち着いていないので
言わないでおこう。
そちらに行った時、僕から話す。」
と言ってくれた。



さて!これからどう生きていけばよいか、
否が応でも突きつけられらる。

私は延命治療は受けないと公言しておこう!
前の犬ルルは乳癌が鼻、そして、歯茎に転移した。
獣医師に安楽死を勧められたが決断できなかった。

でも、今ならナナが苦しみだし、手の施しようがなくなったら
安楽死を受け入れようと思う。

苦しい状態で生き長らえるのは辛い。



自分のことが出来ないようになり、回りのことに
思いをはせられなくなる前に何をしなくてはならないか、
今はこれが大きな課題。

健康寿命をいかにのばすかを真剣に考えよう。

いい思い出をたくさん作ろう。
それが最期の自分を支えてくれると思うから。

達成感や充実感を味わえるように努力したい。

世の中に対してもアンテナを張って
出来ることは少しでも力を出したい。


今回、お通夜で甥たちから弟のことについて、たくさん話が聞けた。

「父を尊敬している。」との言葉が嬉しかった。

物知りで知らないジャンルがないぐらいだと
子どもたちから見えていたそうだ。
芸能から芸術、政治・経済まで。

「勉強をしなさい。」とは言わなかったが、
何でも知っていて、何でも出来る父を見ていて格好いいと思ったと。

自分もそうなりたいといろんなことに向き合ううちに
勉強が好きになっていたそうだ。

父の欠点をあげるとすると?
大きなイビキ!

好きな音楽はイーグルスのテイク・イット・イージーの曲と
フジコ・ヘミング演奏のラ・カンパネラだった。