クローバー 匍匐(ほふく) 福福

末梢神経鞘腫瘍で右前足と肩甲骨を切断したココのことや身の回りの出来事など日々感じたことを発信します。

ココです。初めまして🎵

2021-09-26 22:42:13 | 


9月23日、ココは我が家の子になりました。
10歳のトイ・プードルで男の子です。

21日夕方、犬仲間のWさんが来られ、
近所に3匹犬を飼っていたご夫婦が亡くなられたので、
新しい飼い主を探している。
トイ・プードルの10歳の女の子はどうかという話でした。

私は年齢的に動物はもう飼えないと思っていることと
ルルとナナと28年間飼って来て、とてもいい時間を過ごしてきたが
今は束縛されない自由な時間もしばらく味わいたいとお伝えしました。

今から、会ってみないかと言われましたが
もう少し考えてからとお断りしました。



でも、やっぱり気になります。
夕方、写真をまず送ってほしいとお願いしました。

すると、今、写真がない。
撮りに行って来るので、しばらく待ってとのことでした。

でも、次の日になっても写真は届きません。
夕方、写真はいつ頃になりそうか訊ねました。
明日届けるとのことでした。



23日、午前中、Wさんは直接、ココを連れて来られました。
今、おしっこした時に分かったんだけど、
ココは男の子だったということでした。

ココは初対面にもかかわらず、
私が抱っこすると、少しも嫌がらずに
ずっと抱かれたままでそのまま動きません。


それで、しばらく預かり、様子をみることにしました。


遊ぶときはとっても元気です。



昼寝をする時、いっしょにベッドに連れて行きました。
一度も降りることなく、ずっと私にくっついたままでした。

もう、願ったり叶ったりでした。
私にとって、思い描いていたワンちゃんでした。

すぐにココを我が家に迎えることにしました。



私はナナにもう少し側にいてほしかったし、
寝る時もいっしょに居てほしいとずっと思って来ました。

ナナは1匹でいることが好きな、あまり構われたくないタイプで
人や犬と距離を置く傾向の強い子でした。

私は寂しくて、ずっと片思いの心境でした。



ナナが生きている時に
猫を飼おうとした事があります。

地域のミニコミ紙に保護猫の記事があり、電話をしました。
4,5歳と言う事で大丈夫かと思いましたが
年齢的にダメという事でした。

動物病院の先生に相談したこともあります。
「飼い主が歳をとって、施設に入る時に
飼えなくなることがあるから、そういう子がいたら
知らせる。」とのことでした。

◆  ◆  ◆ 

今回のココとの出会いは
ナナが引き合わせてくれたのではないかと思っています。

ナナは私が寂しかったことを知っていたけど
自分は出来なかったことを申し訳ないと
思っていたのかも知れません。



朝まで、ベッタリくっついて離れないココです。

月と星の撮影

2021-09-23 00:02:41 | 写真
星と月の写真を撮ってみました。

設定はまだ自分では出来ないので、ネットをいくつか見て数値を決めています。
写しているうちにモニターが黒くなり、
星や月が見えない状態に
なることがあります。

そうなると、今まではお手上げ状態でしたが、
この頃はシャッタースピードやISOを変えることで
写せるようになって来て、
喜んでいます。

◆  ◆  ◆

これは9月21日の中秋の名月ですが、部屋の中から撮影しました。
天気予報では曇りとあり、諦めていましたが
9時半頃に窓を開けてみると綺麗な月が出ていました。



取り敢えず撮ってみようと雑誌の上にカメラを置いて、
レリーズなしで写したものです。
この頃のカメラは手ブレに強いのですね。
思ったより綺麗に撮れていました。

◆  ◆  ◆

朝、5時前に起きたら、月が昨日とは別の部屋から見えていました。
昨日は三脚を付けなかったので、
今回はレリーズもしっかり付けて撮影しました。



日の出前なので、月は下方向と右方向に動くのですが、
明け方近くにはそのスピードが
早いので、三脚の位置と高さを頻繁に変えなければなりませんでした。
それに三脚のネジがしっかり止められず、
横方向にぐらぐら動く状態でした。
昨日の三脚なしの方が綺麗に撮れたように思います。

昨晩の月と比べてみると月の模様の位置が変化していて
月へのロマンが広がりました。



我が家の西に欅の木があるのですが、次第に葉が被って来てしまいました。
これを活かせないかと撮ってみました。
葉が大きいので、もう少し小さく撮りたかったのですが、
部屋の中からなのともう月が窓の枠からはみ出そうな状態だったので、
ほとんど動けませんでした。

◆  ◆  ◆



20日には自転車で10分くらいの所にある公園に星の写真を撮りに行きました。
以前から、星の写真を撮るのにいいところはないかとずっと探していましたが
ひと月近く前に見つけた所です。
その後、天気が良くない日が多く、
出掛けられないでいました。

星を撮るのは夜である上、できるだけ暗いところでなければなりません。
私は怖がりなので、さらに入れば、もっと暗くなるのですが
これ以上は・・・というところで撮影しました。
ここは道路から近いけれど、公園に入れば急に暗くなります。

この日は天気予報ではまあまあの天気だったので、
前日から行く予定にしていました。
ところが、4時頃近くを通ると雲が広がっていました。

諦めて、夕方、別の場所でコスモスの写真を撮っていると
だんだん雲が消えて、空が広がって来ました。
慌てて、家に帰り、準備をして公園に向かいました。

撮影して、すぐ雲が出て来てしまいました。
帰ろうとすると、消えて来ました。
そして、写し始めるとまた、雲が・・・
ということで、あまり撮ることは出来ませんでした。



それに、モニター上では撮れたと思ったものが
パソコンで見ると全く写っていないものが何枚かありました。

実は、レリーズを忘れてしまったのですが、
このカメラはスマホをリモコンとして使うことができるので
それで、撮影しました。

シャッターを押す長さが足りなかったのかも知れません。
星は30秒以上シャッターを押し続けると
点ではなく、線になってしまいます。(動いているので)
兼ね合いが難しいです。

スマホで見ると星は殆ど見えていないと思いますが
カメラのレンズを通して撮影すると目では見えない星も写って来ます。
パソコンなどで、よく、見るとかなりたくさんの星が写っています。



これは上の写真の一部を拡大したものです。
星がたくさん写っているのが分かるでしょうか?

被写体によって、設定を自分で決めたり、
カメラや三脚のダイヤルやネジなどの操作が
暗い中でも出来るようになりたいと思っています。


ナナの思い出⑤

2021-09-16 00:39:52 | 
ナナが天国に旅立ってから、早いもので、
もうすぐ3ヶ月が経とうとしています。

毎日ナナのお骨を抱き、写真の中のナナを指でなぞっています。

今でも、しょっちゅう、
ナナの名前や愛称を歌うように呼んでいます。
(ナナが生きている時からの習慣)
そして、ナナがいないことに気付き、
「ナナがいない。」とつぶやいてしまいます。



散歩の道

ナナが散歩したり、よく通った動物病院の近くを通りかかった時は
ナナの姿が思い出され、
「ここ、歩いていたやん。」
「あっちにいつも行きたがったね。」
と声に出てしまいます。

最期の散歩(亡くなる前日)

ナナは多臓器不全で、身体がとても辛かったと思いますが、
本当によく頑張っていました。


ナナとメダカ

ナナはメダカのお水が好きでした。
庭で遊んだあと、玄関付近にメダカの水槽を置いているので
必ずと言っていいほど、飲んでいました。

お水なら何でもということではないようです。
ひしゃくに綺麗な新しいお水を入れて、
口許に持っていっても飲まないのです。
多分、ミネラルが豊富で美味しいのだと思います。

赤ちゃんメダカがいる水槽のお水を飲んだときは
いっしょに赤ちゃんメダカも飲んでいないかと
心配になることもありました。


快適な場所

ナナはその季節でどこが一番快適かをよく知っていました。
夏は風が通り抜けるところを選んで寝ています。

とくに玄関と洗面所は四方から風が通り抜けるので
お気に入りの場所でした。
もちろん、エアコンを付けると
一番寛げるところにいます。



冬は暖かいところを選ぶのはもちろん、日光浴もしっかりしていました。
誰にも教えて貰わなくても賢いなあと思いました。
動物の本能なんでしょうね。

いっしょ!

どこへ行くときにも一緒に連れて行きたかった。
そばにいてくれているだけで心強かった。

1人では行くのが気が引けたり、
心細かったりするところでも
ナナがいると安心できた。



車をやめてからは一緒に出掛けられなくなったことが
多くなり残念でした。

寂しかったことは、ナナが一緒に寝てくれなかったことです。
背中やお腹をさすったり、揉んだりしている間は
”もっと”と催促したり、じっとしていますが
手を止めるとすぐに何処かに行ってしまいます。

亡くなったあとの二晩、一緒に寝ることが出来て、
悲しいけれど、嬉しかった。



ナナは自分からくっついてくるタイプではありませんでした。
亡くなった後の寂しさは少しましかもしれません。

犬のお仲間

ナナのお陰で散歩に行き、たくさんの犬友が出来ました。
外に出て、おしゃべりをし、歩くことは
心と身体にとてもよかったと思います。

今まで、毎日のように会っていた人たちと
全くと言っていいほど会わなくなってしまいました。
多分、犬と散歩する時は
その時の季節や天候によって
犬にとって最適な時間を選んでいるからかも知れません。



体が鈍ってはいけないとなるべく外に出るようにしていますが
今はカメラがお供をしてくれています。

<二日月と金星>
ナナとよく行ったフォレストガーデン 2021/09/09

ル ル

ナナが亡くなってから、
ルルのことをよく思い出します。
そして、いつも謝っています。
ルルが亡くなって、すぐにナナを迎えてしまったからです。



ナナが旅立った後はこんなにナナのことを思っているのに、
ルルの時はナナの方ばかりに気持ちがいって、
ルルのことをあまり、偲ぶことがなかったからです。
「ルル、本当にごめんね。」

ルルが亡くなった時、ルルの写真をたくさん撮ったのに
不思議なことに
1枚だけ、それも2枚分が1枚になった写真しか残らなかったことがありました。

庭の写真も撮ったのですが、それは全部残っていました。
その時、アゲハ蝶(キアゲハ)がいました。
それ以来、アゲハ蝶を見ると
ルルが来てくれたと思うようになりました。


その時の写真


◆  ◆  ◆

今でも、ナナにお別れの挨拶をしに来てくださる方がいます。



Oさん手作りのプリザーブドフラワーと
たまごの置物(イースター・エッグ)です。
Oさんはルルもナナもとてもかわいがってくれていました。
一緒に旅行にも連れて行ってくださいました。


ルル 牛窓 2006/8/22


Oさんの先代犬の海君と 京都 亀岡・嵐山 2010/04/04(ナナは写っていません。)



ムート君とナナ 淡路島 2012/05/23

シュナウザーがお気に入りで、シュナウザーを2匹飼っていましたが
ナナが亡くなった2日後の6月24日に
ムート君が亡くなってしまいました。
10歳で胃癌だったそうですが、
まだまだ、これからだったのに残念でなりません。

ムート君(Oさん撮影)

ムート君はマイペースで自由人!
抱っこされるのが大好きでした!!
日本警察犬協会の訓練を受けたことがあり、
服従心が強くて、とても賢い子でした。


ハイル君(Oさん撮影)

人や犬が大好きで甘え上手。
手足が長く、かっこよく、立派なお髭!
とても、優しく、天真爛漫な子です。


◆  ◆  ◆


Jさんがナナのために持って来てくださったフラワー・アレンジメントです。
思わず、「美味しそう!」と言ってしまいました。

Jさんもナナをとてもかわいがってくださいました。
Jさんはナナが大人しく、聞き分けがよく、
賢い子だなあと思って下さっていたそうです。
そして、「貴婦人のようだったね。」と
言って下さいました。
こんなことを言われたことがなく、とても嬉しかったです。

庭のブルーベリーで作った、とっても美味しい手作りのジャムも
持って来てくださいました。 



アウシュビッツ②

2021-09-03 19:48:48 | 平和

以前、書いたアウシュビッツ①の続きです。

写真は1993年8月「アンネ・フランクを訪ねる旅」に
参加した際、私が写したものです。

文は青色が当時の私のメモ、
黒色が「平和のアトリエ」発行の『アウシュビッツの手紙』と
「毎日新聞社」発行の『ホロコースト 絶滅収容所の記憶 
パンと靴と未来』を参考に書いたものです。

♠︎  ♠︎  ♠︎

アウシュビッツ強制収容所が開かれたのは1940年6月。
初めはドイツ占領軍に反抗したり、レジスタンス運動に参加した
ポーランド人を入れるための強制収容所でした。

ヒットラーが政権を取ったころ、ドイツは混乱状態にありました。
町には、貧しい人や失業者があふれていました。
その不満をユダヤ人に向けて、反らそうとしたのです。
1942年1月ヨーロッパ中のユダヤ人を
根絶やしにすることを決めました。
 


ビルケナウ収容所はアウシュビッツ収容所の
西方約3キロのところに建てられました。
アウシュビッツ第二収容所と呼ばれていました。
収容バラック250以上、面積1750平方キロメートル。
収容人員は一番多い時には14万人にもなったそうです。
建設にはアウシュビッツの囚人たちが使われました。

アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツは
シレジア地方にあったドイツ軍需工場や鉱山・
製油所・実験農場などに囚人を送るための収容所で
40ヶ所に分散していました。

収容者の1日の食事1300~1700kcal
朝ー500ccのコーヒーと呼ばれた液体。
昼ー1ℓの腐った野菜で作られた水のようなスープ。
夕ー300〜350gの黒パン、30gのマーガリンと薬草の飲み物。

<働く>といっても奴隷のように働かされたのです。
12時間労働で、食事以外に休みはありません。
その上、早く急いで作業するように
カポ(伍長・頭などと訳されている)たちが
こん棒とムチを振るうのでした。
時には、走りながら働かされました。

収容所内トイレ(アウシュビッツ)


ビルケナウ収容所のトイレ
1人10秒という規則があった。
 
洗面所(アウシュビッツ)


ベッド(アウシュビッツ)


ビルケナウ収容所の内部

3段ベッドの一つの棚を男か女が8人で<眠る>ために使ったのでした。
3〜4人に一枚の毛布や藁ぶとん、洗うこともなかった衣服。
しらみやノミの攻撃、カポ(親分格の監視役)のどなり声、いざこざ。
暖房や防寒の措置のない中、歯の根の合わなかった夜、
蒸れと悪臭で眠れなかった夜・・・。
時にはチフスや赤痢、そして、皮膚病の蔓延。

不快からくる苛立ちを、ぎりぎりの飢えと疲れと、
絶え間ない怯えと恐怖の大きさを、
誰も想像することは出来ません。
それは体験したものだけが知ることでした。

目はうつろになり、動作はにぶる。
眠気をともなった周りへの無関心、無感動。

ただ座っているか、ふらふらと歩いているか。
<人間>ではない人びとの群れ。

死の壁ーーー約20000人を銃殺した。


10ブロック、窓の木の板ーーー死刑執行を見られないための処置

懲罰のための道具ーーー鞭打ち、杭に吊るす
(後ろ手に縛り、身体を吊す。)

他人の身代わりになって死んだポーランド人の
マクシミリアン・コルベ神父が入れられていた監房18号室。
一切の水・食料を与えないので餓死牢と呼ばれていた。

立ち牢ー90㎝×90㎝の窓のない真っ暗な部屋に4人入れられた。
発狂する人や窒息する人もいた。
死ななかった人は強制労働に駆り出された。


囚人が書き残した落書き
  
ガス室(アウシュビッツ)

新しい移住地、人々はそう言い含められて
ここへ来たのですが・・・(中略)
荷物を一か所にあずけると、囚人たちは一人一人、
SSの医者たちの前を歩かされました。
囚人たちの体力に決定を下すためです。
働く力が残っているか、そうでないか。
すぐ<消す>必要があるか?

病人、老人、弱っている者、
子どもたちは、ガス室への道を歩かされた。

人びとはシャワーで消毒するといわれて地下室へ。
気密のドアが閉まると
1、2缶のチクロンBが壁に造られた隙間から注ぎ込まれた。
毒ガスを発するチクロンBは
「ドイツ害虫駆除協会」の製品でした。

焼却炉(アウシュビッツ)ーーー1日350人の死体が焼かれていた。
1台の炉には同時に2、3人の死体が入れられた。

人々はヨーロッパ中から貨車で送られてきたー国籍は24ヵ国。
『選別』ー死か、労働の後の死か、その違いにしか過ぎなかった。

ビルケナウ収容所はユダヤ人を消す目的で作られた施設。
<絶滅収容所>と呼ばれた。

ガス室だけではなく、飢え、過労、伝染病、病気、虐待、
拷問、死の行進、銃殺、絞首刑、自殺、
人体実験などありとあらゆる方法で殺された。

アウシュビッツ・ビルケナウ収容所で
150万人の人々が殺されました。

ユダヤ人大量虐殺の全体の犠牲者は
600万人に上ると言われる。
(NHK NスペPlus『アウシュビッツ 死者たちの告白』より)

♠︎  ♠︎  ♠︎

絶望を目の前に、それでも人々は精いっぱいの
助けあう努力をしあいました。

スープを一さじづつ、みんなで出しあって
その日にいちばん必要としている人に、
飲ませることもありました。

親から離れてまぎれ込んだ子どもを
かくし通そうとした人々もいます。

また、救ってはもらえないと知りながら、
病院へと隣の人を運ぶ人もいました。
囚人の医者は夜も患者につきそいました。

助け合いは<抵抗の動き>を作り出しました。
それは、人びとが人間の尊さと誇りを失わない証でしたし、
人間を取りもどすことでもありました。

やがて、グループが生まれ、外のレジスタンス運動と連絡して、
秘密のうちに地下活動が生まれました。

抵抗運動の目的は、一番危機にさらされた人びとを助け、
囚人の間に連帯を作り出し・・・
生きる希望を目ざめさせること・・・。

もう一つは、収容所内で起こった犯罪の証拠を集めることでした。