韓国パニック!日本が見放し半導体業界が崩壊

2024年10月20日 12時08分19秒 | Weblog

韓国パニック!日本が見放し半導体業界が崩壊

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防護服着用、永田町襲撃で逮捕の男、計画的か 機動隊員3人が喉を負傷 2024/10/20 11:55

2024年10月20日 12時01分47秒 | Weblog

東京都千代田区の自民党本部と首相官邸が立て続けに襲撃された事件で、臼田敦伸容疑者(49)が首相官邸前の柵に車で突入し、現行犯逮捕された際、防護服を着用していたことが20日、捜査関係者への取材で分かった。車内から見つかったポリタンクは約20個で、中身の大半がガソリンだったことも判明。警視庁公安部は計画的だったとみて動機や背景を調べている。

公安部は19日夜、現場で対応した機動隊員3人が煙を吸うなどして、喉に軽いけがをしていたと明らかにした。臼田容疑者を20日に送検した。

自民党本部では火炎瓶とみられるものを5本ほど投げたほか、捜査関係者によると、車から高圧洗浄機のようなものを持ち出し、警察官に液体を噴射していた。

車で逃走し、官邸前の防護柵に突っ込んだ後、発煙筒のようなものを警察官に投げたとして公務執行妨害容疑で現行犯逮捕された。車内には液体の入った瓶も残っており、簡易検査でガソリンが検出された。

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三ッ林ひろみ候補の応援 高市早苗さん

2024年10月20日 11時48分00秒 | Weblog

三ッ林ひろみ候補の応援 高市早苗さん MAGA&MJGA #久喜

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隣国で大規模な反日デモ勃発!「日本の大使館はなくせ!」

2024年10月20日 11時06分07秒 | Weblog

【韓国の反応】隣国で大規模な反日デモ勃発!「日本の大使館はなくせ!」しかし世界からは予想外の反応が…

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リベラル系新聞は石破首相に優しいのか

2024年10月20日 11時00分27秒 | Weblog

なぜリベラル系新聞は石破首相に優しいのか 「好き嫌い」より読者の知らない知見の報道を 

石破茂首相が衆議院を解散し、27日の総選挙に向けて新聞報道は選挙一色になっている。気になるのは記事に見え隠れする政治家への「ひいき」だ。

対象に距離を置く記事は状況を客観的に把握できる。産経新聞は「石破首相『岸田路線』前面に 参院代表質問 経済、外交・安保踏襲、個性見えずジレンマも」(9日)で、首相がアベノミクス批判や原発を可能な限りゼロとした持論を急に封印した理由を、党内基盤の弱さや経済政策への不安の中で岸田文雄前首相にすり寄り支援を求めざるを得ないからだと説明した。石破首相を取り巻く厳しい状況が納得できた。

ところが自民党内の左派・リベラルの立ち位置だった石破首相に、一部の新聞は優しい。中身のあやふやな「モリカケ(森友学園と加計学園)騒動」で連日たたかれた保守派の象徴、安倍晋三元首相の時とは対照的だ。

朝日新聞は「石破新政権を問う 裏金問題への対応焦点」(10日)で、選挙の争点を、派閥パーティー収入不記載事件である「裏金問題」と設定し、首相批判は緩やかだ。毎日新聞は夕刊コラム「石破首相、見えぬ所信表明の『その先』 元魔人ブウ、票も吸収できる?」(9日)で、人気漫画「ドラゴンボール」のキャラクターに扮(ふん)するまでイメージ作りに努力をした首相に〝人気が出るかも〟との見立てを示した。

それと異なり、日本経済新聞は、金融市場・経済界の声を集めた記事・コラムが多く、筆者には印象に残った。「石破茂首相は長期投資家を味方に」(日経ヴェリタス、5日)では、首相の著書『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社)でのアベノミクス批判を引用しつつ、規律ある経済を投資家の支持で作ってほしいと訴えた。「世界はイシバに投資するか」(8日)で、海外の識者や投資家が、石破氏の持つ頑固さに懸念を持つことを伝える。人物評でも、一般人になじみの少ない場の声を集めると、目新しい印象の記事になる。

もちろん新聞が党派性や記者の好き嫌いを出してもいい。しかし今やネットの発達で「誰でもメディア」の時代だ。好き嫌いの言説はネットにあふれている。それよりも新聞のプロらしい筆力と取材力で、一般人の知らない見方や専門家の意見を分かりやすくまとめて伝える記事の方に、筆者はひかれる。政治と経済、政治と社会など分野を横断する多面的な視点や、読者に役立つ目新しく深い話が新聞の新しい可能性を開くと思う。選挙報道にもうひとひねりほしい。

石井孝明

いしい・たかあき 昭和46年、東京都生まれ。慶応義塾大学経済学部卒、時事通信記者などを経てフリーに。経済・環境情報サイト「with ENERGY」を主宰。著書に『京都議定書は実現できるのか』など。

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高市早苗 前経済安全保障担当大臣 応援演説

2024年10月20日 10時46分49秒 | Weblog

【 高市早苗 前経済安全保障担当大臣 応援演説 】 東京21区 小田原きよし 衆議院議員候補 街頭演説会 2024/10/17

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期日前投票へ

2024年10月20日 10時26分00秒 | Weblog

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貨幣博物館 日本銀行金融研究所貨幣博物館

2024年10月20日 07時53分51秒 | Weblog

日本銀行金融研究所貨幣博物館

館内マップの画像です

開館時間・入館料

9時30分~16時30分(最終入館は16時まで)
休館日:月曜日(ただし、祝休日は開館)
入館料:無料

アクセス情報

地下鉄
半蔵門線 三越前駅(B1出口)から徒歩1分
銀座線 三越前駅(A5出口)から徒歩2分
東西線 日本橋駅(A4出口)から徒歩6分

JR
東京駅日本橋口から徒歩8分

江戸時代の一両の現在価値はどのくらいですか?

江戸時代における貨幣の価値がいくらに当たるかという問題は、大変難しい問題です。世の中の仕組みや人々の暮らしが現在とは全く異なり、現在と同じ名称の商品やサービスが江戸時代に存在していたとしても、その内容に違いがみられるからです。
ただし、1つの目安として、いくつかの事例をもとに当時のモノの値段を現在と比べてみると、18世紀においては、米価で換算すると約6万円、大工の賃金で換算すると約35万円となります。なお、江戸時代の各時期においても差がみられ、米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほどになります。

お金の歴史

古代7世紀後半~12世紀半ば

7世紀後半  発掘からわかった和同開珎以前のお金
8世紀初頭  和同開珎の登場
8~10世紀  古代銭貨の移り変わり
11世紀~12世紀半ば  商品貨幣の時代

 

中世12世紀半ば~16世紀前半

12世紀半ば~13世紀  銭貨の流入と浸透
14世紀~15世紀後半  商品経済の発展と銭貨需要の増大
15世紀後半~16世紀前半  撰銭の発生

 

近世16世紀半ば~19世紀前半

16世紀半ば~後半  銭貨流通の途絶と金銀貨の登場
16世紀後半  金・銀貨幣の定着
17世紀  金・銀・銅の貨幣の統一
17世紀  紙幣の発生と藩札の流通
17世紀末~18世紀前半  元禄・宝永の改鋳
18世紀前半  正徳・享保の改鋳
18世紀半ば  元文の改鋳
18世紀半ば~19世紀  定量銀貨・計数銀貨の登場
19世紀前半  文政・天保の改鋳

古代7世紀後半~12世紀半ば

7世紀末から8世紀の日本は、中央集権的な律令国家を目指し、中国(唐)の諸制度を導入するなかで、銭貨を発行した。奈良時代(8世紀)には和同開珎をはじめとする3種、平安時代(8世紀末~)には9種の銅銭を発行したが、その後、銭貨の発行と使用は途絶えていった。

7世紀後半発掘からわかった和同開珎以前のお金

1998年の飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)の発掘調査により、7世紀後半に富本銭(ふほんせん)がつくられていたことが明らかとなった。飛鳥池遺跡からは、富本銭とともに富本銭をつくるための鋳型やルツボ、やすりなどが出土した。

富本銭は、『日本書紀』天武12(683)年の「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ。」という詔に記された銅銭であると考えられている。
詔に書かれている銀銭は無文銀銭であると考えられている。無文銀銭はこれまで、畿内を中心とした15以上の遺跡から出土している。

8世紀初頭和同開珎の登場

中国(唐)の制度や文化を積極的に採用していた律令国家は、708年に唐の銭貨「開元通宝」をモデルとして和同開珎(わどうかいちん)を発行した。銭貨発行は、国家の独立性と権威を内外に示す重要な意味をもつ。律令国家は、銭貨を蓄えた者に位階を与えるなどの銭貨の使用の促進策をとり、銭貨の普及に努めた。

律令国家は、発行した銭貨を平城京造営などの支払い手段として用いた。

8~10世紀古代銭貨の衰退

律令国家は、富本銭を含め13種類の銅銭を発行した。新銭を発行する際に新銭1枚=旧銭10枚とする政策をとったこと、銅銭の軽小化や質の粗悪化(原材料の銅不足による鉛の含有率の増加)により、銅銭の価値は急速に低下し、銅銭に対する人々の信用は失われた。958年発行の乾元大宝を最後に新たな銭貨は発行されなかった。

古代における銅の生産地の一つとされる長登銅山(現在の山口県)では、9世紀以降、銅の生産が減り、鉛の生産が増加した。

11世紀~12世紀半ば商品貨幣の時代

10世紀の銭貨発行を最後として銭貨流通が途絶えると、価値が安定した米や絹・布(麻布)が銭貨の代わりに貨幣として使われた。これらは、モノの値段をあらわす安定的な価値基準として、銭貨に代わる貨幣としての役割を果たした。

米や絹・布(麻布)は持ち運びが不便だったことから、省力化のため信用取引が行われるようになった。中央の役所は、所管の倉などに支払いを命じた書類を出し、それが現在の小切手のような役割を果たした。

中世12世紀半ば~16世紀前半

12世紀半ば以降、中国から銭貨が大量に流入すると、銭貨の使用が人々の間で浸透し、商品経済が発達した。日本では、16世紀まで国家が貨幣を発行せず、人々は渡来銭を使用した。しかし、銭貨需要の高まりとともに私鋳銭などが増加し、銭貨の質にばらつきが生じると、人々が銭貨を選び劣悪な銭貨の排除など(撰銭)が行われるようになり、銭貨の流通は混乱した。16世紀後半、中国からの銭貨流入が途絶えると、米や金・銀が貨幣として使用されるようになった。

12世紀半ば~13世紀銭貨の流入と浸透

12世紀半ば以降、中国から銭貨が流入するようになり、銭貨は1枚=1文の価値をもつ貨幣として使われるようになった。13世紀には、銭貨の使用が人々の間で浸透し、当初、銭貨を認めていなかった鎌倉幕府や朝廷もその使用を認めた。貨幣としての役割は、それまでの米や絹・布(麻布)から銭貨に集約されていった。

13世紀以降、人々は年貢を銭貨で納めるようになった(代銭納)。それまで年貢として納められていた生産物は、各地の市で商品として取引されるようになり、商品経済が発達した。
<中国の銭貨事情と銭貨流出>
北宋(10~12世紀)は、中国歴代王朝のなかで、最も多くの銭貨を製造し、滅亡後、銭貨は日本などへ流出した。元(13~14世紀)は、紙幣を貨幣の中心にすえ、銭貨の使用を禁止したため、13世紀後半、銭貨が大量に流出した。

14世紀~15世紀後半商品経済の発展と銭貨需要の増大

畿内や諸国をつなぐ都市で地域の名産品などが盛んに取引されるようになり、「有徳人」と呼ばれた裕福な商工業者が現れた。こうした商品経済の発展とともに、国内での銭貨需要が増大した。室町幕府は、中国(明)との交易を通じて銭貨を輸入したが、銭貨の流入は13世紀と比べ減少した。また、14世紀後半から大量備蓄銭が多くみられるようになった。

銭貨需要の増大と中国からの銭貨流入の減少をうけて、国内では渡来銭をまねた模鋳銭がつくられるようになった。
14世紀前半に後醍醐天皇が銭貨「乾坤通宝」などの発行を計画したが、建武の新政の失敗で頓挫した。
<中国の銭貨事情と銭貨流出>
明(14~17世紀)は、当初、銭貨と紙幣を併用させたが、銭貨の製造量は少なかった。また、海外貿易を朝貢貿易に限定する海禁政策をとったため、これが銭貨流出の減少要因にもなった。

15世紀後半~16世紀前半撰銭の発生

15世紀後半以降、商品流通の発展によって国内の銭貨需要はさらに増大した。国内外で私的につくられた銭貨(模鋳銭・私鋳銭)の流通により、銭貨は種類や形状により区別されるようになった。それまでの銭貨1枚=1文という中世的貨幣の特徴が崩れ、各地で銭種による価値の差が生まれるなど、国内の銭貨流通は混乱した。幕府や大名は、銭貨流通の円滑化のため、撰銭令を繰り返し出した。

<中国の銭貨事情と銭貨流出>
15世紀半ば、中国東南部で私鋳銭が盛んにつくられ、撰銭が発生した。私鋳銭は明銭と共に日本へ流出した。
<中世の金融>
貨幣経済の浸透により、信用取引も発達した。14世紀初~16世紀初にかけて「割符(さいふ)」と呼ばれる手形が隔地間での送金・支払手段に使用された。十貫文のものが多く、不特定多数の人々の間を流通した。

近世16世紀半ば~19世紀前半

16世紀以降、戦国大名による鉱山開発により金銀貨がつくられた。織田信長は金・銀・銭貨の比価を定め、豊臣秀吉は天正大判などの金銀貨を製造した。徳川家康は金銀山の支配を進め、貨幣製造の技術・体制を整備し、1601年慶長金銀を発行した。その後、江戸幕府は、寛永通宝を発行し、金貨・銀貨・銭貨による三貨制度が整った。三貨制度は、統一政権が国内の基準貨幣を制定し、日本独自の貨幣体系が成立したという点でその意義は大きい。一方で、各大名領国内では藩札など三貨以外の貨幣も容認され、江戸時代は実際には、緩やかな貨幣統合であった。

18世紀後半、農村での換金作物の生産の普及などから貨幣経済がより浸透し、小額貨幣の需要が増大した。江戸幕府は、金貨単位の計数貨幣「明和南鐐二朱銀」を発行し、秤量貨幣であった銀貨は事実上、金貨の補助貨幣となった。幕末にかけて、財政窮乏を補うために行われた文政・天保の改鋳によって慢性的なインフレとなった。

16世紀半ば~後半銭貨流入の途絶と金銀貨の登場

16世紀後半、中国からの銭貨供給が途絶え銭貨の流通量が減少したため、1570年代の西日本では土地などの大口の取引は、銭貨による支払い(銭遣い)から米による支払い(米遣い)に変化した。また、戦国大名による鉱山の開発が進み、石州銀や甲州金などの領国貨幣がつくられ、高額取引や軍資金に利用された。

石見銀山は、精錬技術「灰吹法」を導入し、各地の鉱山開発の先駆けとなった。石見で産出された銀は、海外に輸出された。
甲州金は、「両」「分」「朱」という4進法の貨幣単位を採用した。甲州金の貨幣単位は、江戸時代の金貨の単位に引き継がれた。
<中国の銭貨事情>
16世紀中国では、銀が貨幣的役割を独占し、私鋳銭の製造が停止されたため、日本への銭貨流出は停止した。

16世紀後半金・銀貨幣の定着

織田信長や豊臣秀吉は、貨幣制度の構築を目指した。信長は撰銭令を出し、そのなかで高額品の売買は金銀の使用を基本とし、銭貨との交換比率を定めた。秀吉は、諸国の鉱山を掌握し、天正大判などの基準となる貨幣をつくった。

大判は武家同士の儀礼などで使用され、社会的に浸透し、金が貨幣として公的な位置づけを得ていった。

17世紀金・銀・銅の貨幣の統一

徳川家康は、秀吉の鉱山を直轄化し、貨幣製造の技術を確保して、小判座や銀座など製造体制を整備した。1601年に様式・品位(金銀の含有率)・形態などを統一した慶長金銀を発行した。銭貨は、しばらく前時代より流通していた銭貨を使用したが、銭貨の安定的な供給を目指し、江戸幕府は1636年に寛永通宝を発行した。寛永通宝は当初、期間を定めて許可を与えた全国の銭座で請負方式でつくられた。

江戸幕府は統一政権として、金・銀・銭貨それぞれを独立した価値を持つ貨幣として発行した。金貨(小判・一分金など)は、額面を記した計数貨幣、銀貨(丁銀・豆板銀)は重さで取引する秤量貨幣、銭貨は1枚1文の計数貨幣であった。

公定相場:金1両=銀50匁=銭4000文
金貨1両(小判1枚)=4分(ぶ)=16朱
銀貨1匁(≒3.75g)=10分(ふん),1000匁=1貫
銭貨1000文=1貫文

17世紀紙幣の発生と藩札の流通

1600年頃、伊勢の山田地方で、神職でもあった商人(御師)により秤量銀貨の釣り銭の代わりに山田羽書(小額銀貨の預り証)が発行され、紙幣として同地域で流通した。やがて近畿地方を中心に商人が私札を発行し、また西日本を中心とした各藩では財政赤字の補填や幕府発行による小額貨幣の不足を補うことを目的として藩札を発行した。

幕府は幕府発行の全国通貨(金銀銭貨)を通用させるため、札遣いの禁止、年限を設けた発行許可、銀札以外の使用禁止など、次々藩札抑制策を採ったが実効性をもたなかった。
幕末までに、約8割の藩が藩札を発行した。少額貨幣の不足を補うかたちで円滑に流通した藩札があった一方、乱発により価値が下落した藩札もあった。

17世紀末~18世紀前半元禄・宝永の改鋳

江戸幕府は、貨幣流通量の増大や幕府財政の立て直しを図るため、慶長金銀に比べて金銀の品位・量目を下げた貨幣の改鋳を実施した(1695年元禄の改鋳・1706~11年宝永の改鋳)。当初は大きな混乱はなく、幕府は多額の改鋳差益(出目)を得たが、後に偽造の増加や貨幣価値の下落などの問題が生じた。

幕府は、改鋳に際し金銀吹所を設立し、金・銀座人を集めて吹替作業にあたらせた(直吹)。元禄の改鋳以降、小判座は金座とよばれた。
公定相場:金1両=銀60匁=銭4000文

18世紀前半正徳・享保の改鋳

江戸幕府は、元禄の改鋳による物価上昇に対して、新井白石の提言により1714年慶長金銀と同品位に引き上げる改鋳を実施した(正徳の改鋳)。この結果、貨幣量は急激に減少し、経済活動の停滞と物価の下落をもたらした。

幕府は、正徳の改鋳の翌1715年、小判の品位をさらに引き上げた(享保小判)。正徳・享保の改鋳は、江戸時代を通じ、金銀の品位を上げた唯一の改鋳である。

18世紀半ば元文の改鋳

江戸幕府は、正徳・享保の改鋳による米価の下落に対処し金銀貨の流通量を増やすため、1736年、金銀貨の品位を引き下げた(元文の改鋳)。この改鋳により、経済情勢は好転し、元文小判はその後約80年にわたり安定的に流通した。

元文の改鋳は、良質な正徳金銀から品位を下げたものであったが、財政収入を目的としたものではなく、必要な量の貨幣を国内に行き渡らせる目的で行われた。
元文期には、短期間に大量に銭貨がつくられた。1739年からは寛永通宝の鉄銭がつくられるようになり、その後鉄銭が中心となっていった。鋳銭量を統制するため、18世紀半ば以降、銭貨は原則幕府支配下の鋳銭定座でつくられた。

18世紀半ば~19世紀定量銀貨・計数銀貨の登場

江戸幕府は、1765年、公定相場(金1両=銀60匁)で金貨と交換させる定量の銀貨単位の計数貨幣「明和五匁銀」、1772年には金貨単位の計数貨幣「明和南鐐二朱銀」をそれぞれ発行した。幕府の両替商への積極的な貸付などの流通促進策もあって、19世紀前半には計数銀貨が全国的に流通するようになった。

当初、幕府は明和五匁銀12枚(60匁)=金1両に固定しようとしたが、それまで金銀相場の実際の変動で利益を得ていた両替商が強く反発した。
明和南鐐二朱銀は、表面に「8枚で小判1両に換える」という文言があり、金貨の補助貨幣となった。幕府が両替商などに利益が出るよう便宜を図ったことに加え、取扱いが秤量貨幣に比べて便利なことから流通するようになった。
銭貨については、1768年、真鍮製の寛永通宝四文銭がつくられた。四文銭は裏面に波紋がある。幕末から明治にかけては鉄製の四文銭が大量につくられた。

19世紀前半文政・天保の改鋳

江戸幕府は、財政窮乏を補うために文政の改鋳(1818年~)、天保の改鋳(1832年~)を実施したが、物価の上昇を招いた。また、財政補填のため、天保通宝百文銭、天保五両判が発行された。

天保通宝百文銭(1835年)は、寛永通宝一文銭5文半程度の原料で100文通用とされ、大量に発行されたことにより、慢性的な物価高騰を招いた。
天保五両判(1837年)は、純金量が天保小判の4枚半分しかなかったため、評判が悪く短期間で製造を中止した。
公定相場:金1両=銀60匁=銭6500文

近代19世紀半ば~20世紀前半

19世紀半ば、幕末の開港直後には金貨が海外へ流出し、金貨流出を抑えるための万延の改鋳を行ったことから、物価はますます上昇し、貨幣制度は維新期にかけて混迷を深めた。
明治政府は、欧米先進国に対抗できる強国を作るため、富国強兵・殖産興業(近代産業育成)の政策を進めた。そのためには、近代的な貨幣制度を確立することが必要で、明治政府は、1871年「新貨条例」を制定し、貨幣単位を従来の「両・分・朱」から「円・銭・厘」とした。1881年には松方正義が大蔵卿に就任し、中央銀行設立の必要を訴え、日本銀行は「松方財政」のなかで1882年10月に誕生した。

19世紀半ば不平等条約の締結と貨幣

1858年、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランス5カ国との間に不平等条約として知られる修好通商条約を結び、同じ種類の貨幣は品位に関係なく同じ重さで通用することが定められた(「同種同量の原則」)。1859年、開港による金貨流出を懸念した幕府は、開港日の前日、天保一分銀より純銀量が多い安政二朱銀を発行し、洋銀1ドル=二朱銀2枚で交換させようとした。しかし、アメリカの反対によって、洋銀1ドル=一分銀3枚となった。

洋銀は、貿易で使われた外国の銀貨で、日本には主にメキシコ銀貨が入ってきた。
日米和親条約(1854年)の下で、洋銀1ドル=一分銀1枚と定められた。その後、アメリカ初代駐日総領事ハリスが「同種同量の原則」を主張し、洋銀1ドル=一分銀3枚となった。

19世紀後半金貨の大量流出のカラクリと万延の改鋳

当時の金銀の価格は、日本が金1g≒銀5g、外国では金1g≒銀15gで、日本では金が割安であったため、日本から海外へ金貨が大量に流出した。1860年、万延の改鋳で純金量を1/3に減らし金銀比価を国際水準としたことで、海外への金貨の大量流出は収束した。

外国商人らは、日本で4枚の洋銀を一分銀、さらに小判へと交換し、海外で小判を交換すると洋銀12枚を得ることができた。

金貨流出の対応策として発行された万延二分金は、幕府財政の補填のため大量に発行され、国内で急激なインフレをもたらした。

19世紀後半 1868~70年代前半明治政府による貨幣制度の整備「円の誕生」

明治新政府は、当初江戸時代の金・銀・銭貨や藩札などをそのまま通用させる一方、自らも「両」単位の貨幣や紙幣を発行した。幕末~明治維新期に混乱した貨幣制度を建て直すため、明治政府は新貨条例(1871年)により十進法の貨幣単位「円・銭・厘」を採用し、近代洋式製法による金・銀・銅の新貨幣を発行した。

新貨条例により、金貨本位制(金1.5g=1円)を採用し、貨幣単位は1円=100銭=1000厘となった。
政府は、紙幣「大蔵省兌換証券」、次いで「明治通宝札」を発行した。政府は兌換制度の確立を目指していたが、当時の日本では金銀が不足していたため、発行された政府紙幣は、実際には金銀貨と交換できない不換紙幣であった。

19世紀後半 1870年代後半国立銀行紙幣の発行と紙幣価値下落

明治政府は、民間銀行に兌換銀行券を発行させ、殖産興業資金の供給をはかるため、「国立銀行条例」を制定(1872年)した。これにより国立銀行(民間銀行)が設立され国立銀行紙幣が発行されたが、条例改正(1876年)により、国立銀行紙幣は事実上不換紙幣となった。

政府は、西南戦争(1877年)の戦費を不換紙幣の増発でまかなった。このため、膨大な紙幣が流通するようになり、紙幣価値は大幅に下落し、紙幣に対する信用が大きく揺らいだ。

紙幣で測った米価は、西南戦争前と比べて2倍に急騰し、銀貨に対する紙幣の価値も暴落した。

19世紀後半 1880年代日本銀行の誕生

1881年、松方正義が大蔵卿に就任した。松方大蔵卿は、紙幣価値の下落は不換紙幣の過剰な発行が原因と考え、緊縮財政による剰余金で不換紙幣の整理を断行した。また、松方大蔵卿は、兌換制度の確立と近代的な通貨・金融制度の確立を目的として中央銀行設立の準備を進め、日本銀行は1882(明治15)年10月に開業した。

最初の日本銀行券「大黒札」は、紙幣価値の回復を待って、日本銀行の開業から2年半後(1885年)に発行された。日本銀行券は、本位貨幣(正貨)である銀貨と交換できる兌換銀券であった。松方大蔵卿は、欧州主要国にならい金本位制を理想としたが、日本は蓄積していた正貨が銀であったため、銀本位制となった。
日本銀行券は円滑に流通し、整理が進められていた国立銀行紙幣と政府紙幣は1899年末に通用停止となった。

19世紀末~20世紀初 1890~1910年代金本位制の確立

欧米先進国は、19世紀後半、銀本位制から金本位制へと移行した。日本も先進国の大勢に従い、1897年に金0.75g=1円とする「貨幣法」を制定し、日清戦争の賠償金を準備金として金本位制を確立した。金本位制の確立により、日本は国際的な経済・金融秩序に加わることになった。

日本銀行券はそれまで「日本銀行兌換銀券」だったが、金貨と交換(兌換)できる「日本銀行兌換券」になった。
1914年に始まった第一次世界大戦による大戦景気により日本銀行券の需要は増大した。

20世紀前半 1920年代金融恐慌の発生

第一次世界大戦が終わり、ヨーロッパ諸国が復興してくると、日本の輸出は減少し、各産業を不況の波が襲った。1923年には関東大震災にもみまわれ、日本経済は大きな打撃を受けた。そうしたなか1927年3月、金融恐慌がおこった。

日本銀行は多額の日本銀行券を発行し、預金者の不安を鎮めることに努め、政府は3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発令するなどの対策を講じた。
不安にかられた人々が預金の引き出しに殺到する取付け騒ぎが拡がり、日本銀行券が不足したため、急遽裏面の印刷を省いた二百円券(裏白券)を発行した。

20世紀前半 1930年代金本位制から管理通貨制へ

ニューヨークのウォール街での株価大暴落(1929年)をきっかけとする世界恐慌の影響で、イギリスは1931年9月に金本位制からの離脱に追い込まれた。欧州各国はイギリスに続いて金本位制を停止し、日本も同年12月に銀行券の金貨兌換を停止し、金本位制から離脱した。その後、1942年に公布された日本銀行法により、名実ともに今日につながる管理通貨制へと移行した。

管理通貨制度のもとでは、日本銀行券は金貨と交換不可能で、通貨の発行量は中央銀行が調節することになった。
日本銀行法により券面の金貨引換文言が消え、「日本銀行兌換券」は「日本銀行券」となった。

© Bank of Japan

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高市早苗氏 2024衆院選応援演説 10月19日 埼玉県富士見市鶴瀬駅前

2024年10月20日 07時50分41秒 | Weblog

高市早苗氏 2024衆院選応援演説 10月19日 埼玉県富士見市鶴瀬駅前

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玉城デニー沖縄知事、訪米成果なし「中国の脅威理解していない人」の烙印 仲新城誠

2024年10月20日 07時39分37秒 | Weblog

玉城デニー沖縄知事、訪米成果なし「中国の脅威理解していない人」の烙印 仲新城誠

沖縄が危ない

「特別待遇」受けられず

沖縄県の玉城デニー知事は9月に訪米し、米政府関係者に「米軍基地負担の軽減」を直訴した。米兵による性的暴行事件が発覚したことを受け、同様の事件の再発防止も申し入れた。

一方、尖閣諸島(石垣市)周辺海域で頻発する中国艦船の領海侵入など、沖縄が直面する中国の脅威には言及しなかった。むしろ滞在先での発言は〝対中融和〟を訴える内容が目立った。

訪問先の国務省、国防省では米兵による事件への抗議、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古移設反対を訴えたが、両省とも対応したのは日本部長。県によると「問題が発生した際は迅速に、透明性と実効性をもって対応する」ことを確認したという。

だが、訪米した歴代知事の中には、長官と面会した例もある。米政府は知事をビジネスライクに扱い、それ以上でも以下でもなかったようだ。知事が「特別待遇」を受けられなかった最大の要因は、その政治姿勢ではないか。

玉城知事は米シンクタンク関係者との面談で、「『台湾有事は日本有事』という言葉が危ういくらい独り歩きしている」と日米の対中強硬姿勢に懸念を表明した。

コロンビア大学での講演では「軍事力の強化のみでは緊張感を高めるだけ。外交による緊張緩和、信頼関係が必要」と述べ、県が独自の「地域外交」に取り組んでいることを説明した。

台湾周辺や南シナ海で中国の侵略的な行動が激化するなか、対中抑止は日米にとって喫緊の課題だ。知事が基地負担の軽減を訴えることには一定の意義があるが、抑止力を否定するような言動が米政府から見て〝時代錯誤〟に映ったであろうことは想像に難くない。

直前の8月末には台湾に近い与那国町の糸数健一町長も訪米した。米政府関係者との面談では、「台湾有事」を防ぐため抑止力の強化を求めた。同じ沖縄から来た2人の首長が真逆の発言をしたことになる。

ラーム・エマニュエル駐日米国大使は5月、与那国島を初訪問して糸数氏と懇談している。米政府としては糸数氏の発言の方を重要視したはずで、玉城氏に対しては「対中最前線にある沖縄の危機を理解していない知事」という印象を抱いたのではないか。

玉城知事の訪米は沖縄県内では大きく報道され、知事は「さまざまな成果が得られ、大変有意義だった」と自賛した。

だが、沖縄の「県益」につながる成果を引き出せたと言えるだろうか。

昨年の国連演説、今回の訪米と、世界をまたにかけるような玉城知事の活躍だが、県民にしてみれば普天間にせよ尖閣にせよ、知事の海外出張で状況が改善されたという実感は全くない。ただし、2年後の知事選をにらんだパフォーマンスとしてなら、確かに上出来だったかもしれない。(八重山日報編集主幹)

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自民と立民が増税路線で同調 「震災後の悪夢」財務省には千載一遇の好機か 高橋洋一

2024年10月20日 07時27分05秒 | Weblog

自民と立民が増税路線で同調 「震災後の悪夢」財務省には千載一遇の好機か 高橋洋一

金融所得課税の強化について、石破茂首相は自民党総裁選で取り上げた後で引っ込めたが、ここにきて立憲民主党の野田佳彦代表が「25%への引き上げもあり得る」と強調した。野田氏は法人税も上げる余地があると述べたという。衆院選のタイミングでこうした発言をした狙いはどこにあるのか。

石破政権はブレるので、金融所得課税については再びブレて「課税強化」を言いかねない。

はっきり言えば、消費税について、自民党と立憲民主党がシンクロしているのが気になる。

与野党党首は13日のNHK番組で論戦した。石破首相(自民党総裁)は、消費税率について「引き下げることは考えていない。当面、上げることも考えていない」とした。減税はやらない方針だ。

立憲民主党の野田氏も消費税の減税に関し「高額な所得者が額として一番恩恵を受ける」と述べた。一般的には、消費税は逆進性があるので、減税は低所得者層ほど有利になる。だが、わざわざ額に言及して分かりにくくしているが、要は減税しないということだ。

他の野党党首は減税に言及しているのに、自民と立民は歩調を合わせて減税に否定的だ。

立民の新代表が決まった段階で危惧していたが、野田氏といえば、民主党政権時代に消費増税という財務省の戦略にまんまと乗り、一部では「使い勝手ヨシヒコさん」とも揶揄(やゆ)されていたらしい。

石破首相も、財政緊縮と金融引き締めで有名だった人だ。衆院選では自民党と公明党は苦戦が見込まれ、自民の過半数割れを予測する人も少なくない。有権者の動向によっては自公で過半数割れもあり得る状況だ。その場合、負け方にもよるが、自公と立民による「大連立」にならないともかぎらない。仮に「台湾有事」になると、大連立の大義名分ができる。

そうした話は東日本大震災の時にあった。実際には大連立にはならなかったが、当時の野田首相と野党だった自民党の谷垣禎一総裁はともに増税志向だったので、復興増税と2度の消費増税というホップ・ステップ・ジャンプという財務省の野望が実現した。財務省は、大連立にならなくても、この東日本大震災の後の増税路線の再来を狙っているのではないか。

歴史は繰り返すという。増税したい財務省からみれば、自民と立民の両トップが増税志向だというのは千載一遇のチャンスだ。しかも、立民の野田代表は、過去の消費増税の立役者なので、再び増税をやってくれそうだと期待してもおかしくない。今回は野党なので、石破首相を誘導することも考えられる。

野田代表から金融所得課税25%や法人税増税を言い出したのも、そのための戦略ではないだろうか。早速、石破首相は防衛増税を言い出した。金融所得課税は金持ち優遇の是正、法人税増税は利益をため込んで吐き出さない企業へのペナルティーというキャッチフレーズだろう。そこで増税に勢いをつけ、次には社会保障にかこつけて再び消費増税というシナリオを財務省は描いているのではないか。(元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)

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今朝の道路清掃 10月20日(日)

2024年10月20日 05時57分58秒 | Weblog

犬フン 犬ション 立ション ゲロ 吸い殻226 ゴミ中袋

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これから道路清掃

2024年10月20日 04時29分21秒 | Weblog

これから道路清掃

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連続強盗、横浜の強盗殺人事件で22歳の男を逮捕 神奈川県警 2024/10/19 23:01

2024年10月20日 04時25分05秒 | Weblog

首都圏で相次ぐ強盗事件に絡み、横浜市青葉区の住宅で住人の後藤寛治さん(75)が殺害され現金が盗まれた事件で、神奈川県警は19日、強盗殺人の疑いで、千葉県印西市木下、自称個人事業主、宝田真月容疑者(22)を逮捕した。

逮捕容疑は15日ごろ、後藤さん宅に侵入し、後藤さんに暴行を加え全身打撲による失血死で死亡させて殺害した上、現金約20万円を奪ったとしている。

捜査関係者によると、後藤さんの住宅から検出された指紋が、千葉県市川市の住宅に押し入り、住人の女性を連れ去ったとして逮捕監禁容疑で千葉県警に逮捕された職業不詳の藤井柊容疑者(26)の指紋と一致しており、神奈川、千葉両県警などの合同捜査本部が関連を調べている。

                      産経新聞

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10月19日(土) 訪問者数

2024年10月20日 04時16分19秒 | Weblog
10月19日(土) 訪問者数 872 閲覧数 2252  475/3192915ブログ
 
 
 
 
 
 
 
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