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ゆるキャン△の聖地を行く20 その12  掛川城の竹之丸

2021年08月19日 | ゆるキャン△

 掛川城は、駿河守護職今川氏の家臣の朝比奈氏が永正九年(1492)頃に、東にあった掛川古城に代わる新城として築いたのが始まりです。初代城主は朝比奈泰凞(やすひろ)で、その娘が今川氏親の側室となり、今川義元を生んだという説が最近に発表されていますが、これは本当かもしれません。
 今川義元が桶狭間合戦で織田信長に討たれた後、子の今川氏真に力量がなく、今川領は武田氏と徳川氏の浸食を受けますが、掛川城主朝比奈泰朝(やすとも)は今川氏に忠誠を貫き、武田信玄の侵攻により駿府を追われた今川氏真を受け入れて徹底抗戦しました。周りが殆ど寝返る中での孤軍奮闘ぶりは、今川義元が朝比奈泰凞の孫にあたるならば至極当然の帰結であろうと思われます。

 ですが徳川家康の猛攻防ぎがたく、永禄十二年(1569)に今川氏真および朝比奈泰朝は降伏し城を明け渡して没落しました。その後は徳川家康家臣の石川家成が入城し、掛川城は対武田氏の防御拠点となりましたが、天正十八年(1590)に徳川家康が関東移封となった後は、豊臣秀吉家臣の山内一豊が城主となりました。のちの土佐高知藩山内氏の祖です。

 いま見られる上図の復原天守は、この山内一豊が城主だった頃の様相を示しています。よく高知城天守に似ているとされますが、もともと高知城天守が藩祖ゆかりの掛川城天守を模したものでした。それで、天守の復原事業においても高知城天守を参考にしているそうです。

 この天守にはこれまでに五回ぐらい登っていますので、内部もよく覚えています。それで今回は天守以外の城内遺跡を見て回ることにしました。案内所で問い合わせたところ、コロナ対策でしばらく閉館していた竹の丸の屋敷が公開されているということで、竹の丸に向かいました。

 

 本丸広場から引き返して二の丸への連絡路となっている通路を進み、これを護っていた十露盤(そろばん)堀を見ました。発掘調査で検出された遺構をそのままレプリカで包んで展示しています。

 

 十露盤(そろばん)堀とあわせて本丸の東側の尾根続きを遮断して護った三日月(みかづき)堀です。これも発掘調査で検出された遺構をレプリカで包んで展示しています。

 

 二の丸から本丸天守を見上げました。急な切岸面に護られた本丸東側の様子がよく分かります。その上の尾根を削り残した高所に天守が築かれています。攻めるに難く、守るに易し、の典型的な縄張り事例です。

 この二の丸には、全国でも4棟しか現存しない城郭御殿建築の一つがありますが、何度も入っていて知っていますので、これもスルーして横から竹の丸に行きました。

 

 竹の丸に着きました。これまで修理中、整備中、コロナ対策閉館、と何度も見学機会を得られなかったため、今回が初めての見学となりました。この種の建築遺構を見るのは好きなので、ワクワクしてしまいました。

 

 これは番所ですね。これを見ただけですと近世武家屋敷の建築遺構かな、と思いがちですが、ここの屋敷は文化財指定上の正式名称が「旧松本家住宅」となっています。
 松本家は掛川藩の安政五年(1858)の指定葛布取扱問屋の中に名が見え、要するに藩御用商人のひとりでした。その松本家が廃藩後の明治三十六年(1903)に本宅をここ竹の丸に移して新造したものが、いま現存して公開されている竹の丸の屋敷建築であります。

 

 なので、この屋敷は近世期の豪商の住宅遺構です。国内でも現存例が稀な建築遺構であるため、平成17年に国の登録文化財に指定され、その後平成19年に国から掛川市へ管理移管する形で掛川市有形文化財に指定されています。
 全体的には近世期末期の武家屋敷の様相を残しつつ、近代の洋風建築の要素も取り入れながら和風にまとめた住宅の遺構、となります。

 なので、一見して掛川藩の上級武士の武家屋敷に見えたとしても不思議はありません。竹の丸は、城内の北門を含めた本丸北側の防御区画であってもとは家老クラスの屋敷地が並んでいたエリアですから、私も十数年前に竹の丸屋敷の建築遺構のことを初めて知った際には家老屋敷か何かかな、と思ったぐらいでした。

 

 主屋の式台玄関です。近世武家屋敷でもなかなか見られない立派な構えです。さすがに富裕商人ならばでの、金のかかった高級な造りだなあ、と思いましたが、それにしては木材や瓦が新しいなあ、もしかして復原かな、と感じました。
 その通り、内部の案内説明板によれば、この玄関部分は復原修理工事において復原された部分であるそうです。

 

 この「旧松本家住宅」は、主屋と奥の二階建ての「離れ」から成り立ちます。主屋西端の通廊から「離れ」をみたところです。

 

 主屋西端の通廊です。人ひとりやっと通れる程度の幅です。ああこれは間違いなく武家屋敷じゃないな、商人屋敷だな、と納得しました。武家屋敷の通廊は基本的に帯刀での通行を前提とするため、刀を腰に差して歩いても刀の鐺(こじり)が壁や障子に当たらないぐらいの幅を持たせるのが基本であるからです。

 これまでに全国各地の武家屋敷の建築遺構を色々と見学していますが、大体は廊下または通路空間の幅が上図の「旧松本家住宅」のそれの1.6倍以上はあったかな、と思い出しました。

 

 「離れ」の二階にあがりました。この住宅建築のなかで最も贅沢に金がかけられている空間です。貴賓室と座敷とが廊下をはさんで並びます。

 

 座敷です。床の間が珍しく二畳の畳敷きに作られますが、これは茶室の空間を兼ねていたのでしょうか。他の設えも、近世武家屋敷の要素と大して変化がありません。
 上図左端に見える障子戸の障子枠が上下二段に分けられて繰り上げ戸となっているのは、そちらが東側なので朝の陽光を段階的に入れることが出来るようにする配慮からでしょうか。現在の鉄道車両の窓のスライド式遮光カーテンに通じるものがあります。

 

 廊下の突き当たり、厠の隣にあった棚空間です。各種の備品が置けるように棚板が三種類のサイズで壁に仕込まれ、床にも盆板が置かれます。食器や調度品などをおくスペースであったのでしょうが、こういった小さな区画においても工夫を凝らして金もかけて立派な設えに整えてあります。この住宅建築の数多い見どころの一つです。  (続く)

 

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