気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く20 その18  新所原駅へ

2021年08月27日 | ゆるキャン△

 ゆるキャン車輌に乗り、15時41分に天竜二俣駅を出ました。私のゆるキャン車輌乗車のラストでした。

 

 16時28分、浜名湖佐久米駅に停まりました。「さくめ」のウナギ定食は既に営業時間を過ぎており、今回もお預けとなりました。

 

 車窓に広がる浜名湖の広い湖面。海のように見えます。

 

 浜名湖の景色を撮ろうと、一度上図の対面シートに移動しました。犬山あかりと鳥羽美波先生のデザインの位置でした。

 

 犬山あかりの顔つきは、そのまま姉のあおいの小学生時代の顔つきに通じるでしょう。眉毛が前髪を突き抜けて上に出てくる不思議な表現も同じです。このタクアン形の眉は、間違いなく「けいおん」の琴吹紬のオマージュでしょう。

 

 浜名湖はいつ見ても飽きません。個人的に子供の頃の思い出が沢山あるからでしょう。

 

 その数々の思い出の地、三ヶ日に16時36分に着きました。私が小学生の頃、母の兄にあたる伯父、および弟にあたる叔父の一家がいずれも三ヶ日に住んでいて、母方の縁戚の集まりが毎年ここでお盆と正月にありました。

 

 なので、その時期の四年間は、年に二度三ヶ日に行きました。当時は国鉄二俣線三ヶ日駅でした。駅から北へ行くと伯父の家、南に行くと叔父の家に向かうのでしたが、集まりはたいてい北の伯父の家でした。
 母は6人きょうだいの三女にあたり、長男の伯父は母の十歳上、二男の叔父は母の二歳下でした。それで、私はどちらかというと母と仲が良かった叔父のほうになついていました。

 叔父はバイクや車の運転が大好きで、よくドライブに連れていってくれましたが、行先がたいていは遠州海岸か弁天島でした。そして帰りに「お腹空いたろ、何か食べるか」とアイスとか焼きとうもろこしとかうなぎパイとかを買って食べさせてくれるのでした。それで夕食が食べられなくなり、叔母を困らせたりもしました。母が「なんで夕食前に色々食べさせんのよ」と叔父を叱るのでしたが、叔父はテヘヘと舌を出して私を引っ張って逃げてゆくのでした。

 叔父にとっては最愛の姉の息子、ということで私をとにかく可愛がってくれました。当時持っていた玩具も、父よりも叔父に買って貰った品のほうが多かったようです。殆どがプラモデルだったと思います。そういえば、私が初めて作ったウォーターラインシリーズの駆逐艦「吹雪」も、叔父に買って貰ったのでした。

 その叔父との関係性は、縁戚の葬儀などで集まることが多くなった現在でも変わっていません。伯父をはじめ、母方の6人きょうだいの3人が故人となりましたが、叔父は相変わらず元気です。
 叔父の家は現在は浜松市西区雄踏町にありますが、そこへも何度か遊びに行きました。今年のお盆にも行きまして、私が叔父をドライブに連れて遠州海岸まで行き、帰りに「はじめ」の炭焼き鰻を御馳走してあげました。

 なので、浜松は、私にとっては第二の故郷であります。その地を今は「ゆるキャン△」聖地巡礼であちこち回っているのですから、なにか縁があったのかな、と思う事もしばしばです。

 

 終点の新所原駅に17時に着きました。

 

 前回のゆるキャン車輌乗車は浜名湖佐久米駅まででしたから、今回初めて新所原までの全線を乗ったことになりました。最後の乗車も完了し、達成感や安堵とともに寂寥感もうっすらと覚えました。

 

 天浜線の新所原駅から、連絡路にてJR新所原駅へ移動しました。

 

 JR新所原駅の橋上駅舎の南北自由通路へと移動し、南の天浜線駅舎を見ました。実は、ゆるキャン車輌を上から見下ろす形で見られる唯一のスポットがこのJR新所原駅でした。なので乗車は完了しましたが、撮影のミッションは完了していませんでした。

 

 上から見下ろすアングルでの撮影です。車体全面にラッピングが施されているゆるキャン車輌ですが、さすがに天板までには及んでいませんでした。以前に伊豆堂ヶ島で見たゆるキャンラッピングカーが天板までラッピングをまわしていたため、こちらのゆるキャン車輌もどうなっているのかと興味がありましたが、結果はかくのごとくでした。  (続く)

 

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