大徳寺塔頭の総見院に着いて、まずは上図の唐門形式の表門を見上げました。天正十一年(1583)に羽柴秀吉によって創建された総見院の、創建当初から残る建築です。
この表門は、織豊期の門建築としては大型に属します。門扉の設えも丁寧になされて、織田政権の覇権争いに勝った秀吉が掌握した権力と財力のさまを端的に示します。江戸期以降の繊細な造りの門とは異なって細部にも実用的機能に即した豪壮な気分が満ち溢れ、戦国期の建築の質実剛健さの実態がしのばれます。
屋根の木組みや疎垂木の造りにもまったく無駄がありません。室町期までの優雅な趣や繊細な美的感覚は全てそぎ落とされ、戦国乱世の世相が表裏を問わず反映されて、装飾的要素も最低限に抑えられています。
この武骨ともいえる造りが、U氏は気に入ったようで、「こういうのが戦国なんだな、建材にしても必要最低限だろうのに、ちゃんと機能的な建物を建てて、それでいて手抜きでは無くてきちんと堅牢に造ってある。まさに戦国だな」と言いました。
確かに、この門が建てられた天正十一年(1583)、羽柴秀吉は織田信長の継承者の位置についたばかりで、畿内にすら数々の敵対勢力をかかえ、特に徳川家康の存在が懸念材料の最たるものとして世間をも騒がせていたのでした。織田信長がようやく築きつつあった天下泰平への機運は本能寺の炎のうえに一時の停滞を余儀なくされ、各地の戦国大名勢力の蠢動が再び始まるかに思われた時期でした。
だから、羽柴秀吉が、織田信長の自害の100日後の天正十年(1582)10月10日に大徳寺において「大徳寺の葬儀」を盛大に行ったのも、諸勢力への牽制の意味があった筈です。室町幕府全盛期の足利将軍の七仏事の作法にならって、仏事を七日間にわたって執り行ったのも、室町幕府より政権を継いだ信長とその継承者たる秀吉の位置を正当化し権威づける狙いがあったことと推されます。
その「大徳寺の葬儀」の翌年、信長の一周忌に合わせて追善菩提のため大徳寺117世の古渓宗陳を開山として建立したのが総見院です。その時の表門および土塀、通用口が明治期の廃仏毀釈による総見院の廃絶をも乗り越えて、大正期の再興まで維持され今に伝わっているのは、奇跡的です。明治の廃絶後に大徳寺の修禅専門道場及び管長の住居として転用されたことが大きかったようです。
表門の左右の土塀も、天正十一年(1583)創建以来の遺構です。塀の内側にもう一つ塀が設けられる、いわゆる「親子塀」の形式ですが、これは対鉄砲弾の防御性に優れた実用的な土塀の一種であるので、戦国期に各地の城塞などで築かれた土塀の技法が反映されているものと見るべきでしょうか。
表門から、まっすぐ境内地の左奥に進んで、墓地の北に位置する織田家墓所に行きました。この日のU氏の一番の目当てがここでした。私もここへは初めて参りましたので、お互いの感動や感慨は似たような内容であったと思います。
織田家墓所の案内板です。誰の供養塔であるかが、これによって分かります。上図の案内板には九人分が書かれていますが、信長の長女の徳姫、九男の信貞、信貞長男の高重の供養塔も同じ墓所にありますので、全部で十二人の墓塔が存在します。ただ、徳姫以下三人の墓塔は脇のほうにあるので、案内板の範囲には含まれていないわけです。
織田信長の供養塔。戒名は総見院殿贈大相国一品泰巌大居士。
U氏は「・・・どいろくてんの、まうを・・・」と信長本人が武田信玄にあてた書状の自著名で低く呟きました。現代表記でいう「第六天魔王」のことでした。 (続く)