気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

紫野大徳寺14 総見院墓所と鐘楼

2022年10月08日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺の塔頭総見院は、明治期の廃仏毀釈によって荒廃して絶えた後、大正期に再興されています。そのために本堂以下の主要建築は昭和に入ってからの再建であり、天正十一年(1583)創建以来の遺構としては前述の表門と土塀、そして上図の織田家墓所、秀吉ゆかりの侘助椿、が挙げられます。遺品としては、秀吉による「大徳寺の葬儀」に際して造立された二体の織田信長像のうちの一体(国重要文化財)が挙げられます。

 今回の特別公開は、これらの伝世文化財を見られる唯一の機会であったので、信長に関心の高いU氏が昨年よりリクエストしていたものでした。上図の織田家墓所も、厳密には供養塔の並びに過ぎませんが、信長以下一族の墓塔がまとまっているのはここしかありませんから、U氏にとっては「聖地」の一つであるのに違いありません。

 

 さらにU氏は、上図の濃姫の供養塔を感慨深げに拝し、「斎藤道三の愛娘か・・・」と呟きました。それから私を振り返って聞いてきました。

「右京大夫、この濃姫っての、後世になってからの呼称なんだろね。生前は何と呼ばれてたのかねえ」
「戦国期の習慣に即して言うなら、信長に嫁いだ時点での実家の名前で呼ばれるのが普通やな。当時の斎藤道三は子の義龍に家督を譲って稲葉山城から鷺山城に移っていたから、その鷺山城からの嫁ということで鷺山殿、というのが普通やろうな。もしくは正室の一般的呼称である「北の方」だったかもしれん」
「なるほどな。濃姫とか於濃とかは後世の小説とかの呼び名だもんな。北の方、が普通か。あとは安土城に移ってから安土殿と呼ばれた説もあったっけな。信長以外に安土城の名を冠して呼ばれる女性なんて正室だけだろ」
「そうやろうな」

 この供養塔には「養華」と刻まれているので、大徳寺においては「養華院供養塔」と伝えています。安土の摠見寺の「泰巌相公縁会名簿」に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と記されていることが近年に判明し、この「養華院供養塔」が「信長公御台」つまり通称濃姫の供養塔である可能性が高くなりました。これによれば、濃姫は慶長十七年(1612)まで生存していたことになりますが、信長より一つ年下であった説に従えば、78歳で没したことになります。
 「養華」が鷺山殿こと濃姫であれば、彼女は夫の信長よりも、そして秀吉よりも長く生きて、戦国乱世の流転と終焉を見届けたことになります。なんとドラマチックな生涯であったことでしょうか。

 

 「養華院供養塔」の隣には、信長の側室で七男信高、八男信吉を生んだ興雲院、通称お鍋の方の墓石があります。自然石をそのまま墓石となしているため、これは供養所ではなくて実際に埋葬されているものとみられます。興雲院は京都で晩年を過ごし、慶長十七年(1612)に没しています。おそらく大徳寺総見院とも織田家墓所への関わりにおいて縁があったのでしょう。そして側室であった自身に相応しい墓として自然石を選んだのかもしれません。

 

 以上、信長の正室養華院、側室興雲院の墓石でした。ともに慶長十七年(1612)まで生存していたのであれば、何らかの交流があったかもしれず、織田家墓所への埋葬もその延長上にあったかもしれません。

 信長の側室は十人ほど知られていますが、序列では生駒氏、坂氏についで三番目であった興雲院だけが正室と共に菩提寺総見院に葬られている点は、没年が同じである事とあわせて、なんらかの関連事情があったことを思わせます。U氏も「たぶんこの二人がともに京都で晩年を過ごしたのと違うかな」と話していました。

 

 織田家墓所から本堂へとまわる途中で、上図の案内板を見ました。

 

 これが秀吉が植えたという侘助椿ですか・・・。すると樹齢は430年ちょっとであるわけですが、そんなに古い木であるようには思えませんでした。

 

 こちらの井戸は、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰った石を彫り抜いて井筒にしたという伝承があります。一個の大きな石を彫り抜くのは相当な技術が必要です。いわゆる一石井筒ですが、日本では鎌倉期からの遺品が知られます。こちらの彫り抜きには高度な技術が示されているので、加藤清正云々というより、朝鮮渡来の新たな石工技法が伝わった一つの事例とみるのが妥当でしょうか。

 

 その後、本堂にて本尊の織田信長坐像を拝しました。秀吉が天正十年に「大徳寺の葬儀」を執り行った際に、香木の「沈香」で信長の像を二体作らせて、葬儀の際に一体を棺に納めて信長の代わりに火葬しています。残る一体が現存する坐像にあたります。立体的彫像なので、生前の信長の面影を肖像画類よりもリアルにとどめているものと思われます。信長とは、こういう相貌であったのか、と興味深く拝見しました。

 なお本堂内外は撮影禁止であるため、本堂からの景色を撮るにとどめました。上図は本堂南縁より土塀外の鐘楼をみたものです。

 

 その鐘楼の下まで行きました。

 

 この鐘楼も、天正十一年(1583)の総見院建立時からの遺構です。信長の家臣の堀秀政が寄進したもので、楼内に懸けられる梵鐘も同時期の遺品です。ともに国重要文化財に指定されています。

 U氏が「明治の廃仏毀釈で荒廃して廃絶したというわりには、門とか鐘楼とか、よく残ったねえ」と感心していました。おそらくは大徳寺境内にあるから管理が続けられて残されたのだろうな、と考えました。これがもし街中にあれば、廃絶の際に建物も取り壊されて宅地に転じていただろう、と思います。  (続く)

 

コメント
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