宇治橋の上流、宇治神社の南隣に、恵心院(えしんいん)という真言宗智山派の寺院があります。境内地が朝日山の西麓にあるため、山号を朝日山とします。地元では「花の寺」として知られていますが、歴史的には宇治でもかなり早い頃に成立した寺であるようです。
伝承によれば、空海によって開かれたといい、唐の青龍寺に似ていたため、龍泉寺と名付けられたそうです。寺伝によれば、平安時代の寛弘二年(1005)に恵心僧都源信により再興されたといい、恵心院の名もそれに因むもののようです。中世戦国期に兵火に掛かって衰退し、廃絶しています。
なので、現在の寺観はそれ以降の江戸時代の再興によって整えられています。明治までは黄檗山萬福寺の総門と同じような黄檗洋式の立派な表門が存在したのですが、大破して取り壊され、それ以降は上図の薬医門が山門として機能しています。
この門は、天正十七年(1589)に再興寄進として、豊臣秀吉及び徳川家康から合わせて30石を賜って建てたものであり、平成四年に解体修理が行われて柱以外は新材に交換されましたので、新しい時期の建物に見えます。現在は北向きに建ちますが、江戸期の承応元年(1652)の付箋がある境内図をみますと、天正十七年の竣工時には西向きに建っていたことが分かります。
その後、延宝四年(1676)に現在の本堂が建てられた際に伽藍のレイアウトを改めた形跡がうかがえるので、その際にこの門も向きを変えたのかもしれません。
延宝四年(1676)に建てられた現在の本堂の正面部分です。外観全体を撮りたかったのですが、周囲に樹木が茂って建物が見渡せる状況ではありませんでした。
この本堂は、須弥壇室と護摩壇室とが左右非対称で建てられた和様仏堂で、内部空間にかなりの改造が加えられていますが、江戸期仏堂の典型的な一例として価値があり、京都府の有形文化財に指定されています。建物は、江戸期に宇治代官職を任された上林家の一門衆によって造営され、大工は黄檗山萬福寺伽藍の建設に携わって代々が萬福寺大工を世襲した、五ヶ荘の秋篠兵庫藤原吉兼が担当したことが棟札裏面の記載によって知られます。
恵心院は、江戸時代の初期において上林家を通じて江戸幕府との関係があり、徳川将軍家や上林家より度々祈祷を依頼されていたことが寺伝や古文書類によって知られます。
さらに恵心院文書には、春日局(徳川家光の乳母)の書状写や、松平大河内隆綱(老中松平伊豆守信綱の義弟)の書状、天英院近衛熙子(このえひろこ・徳川家宣の正室)からの下賜品記録状などが含まれ、徳川将軍家および幕閣との繋がりが深かったことが分かりますが、その関係性がいかなる事情によって生まれてきたのかについては、あまりよく分かっていないようです。
なので、恵心僧都源信の頃の恵心院のイメージというものも、あまり実感出来ません。ただ、現在も寺の本尊として祀られる十一面観音立像は十世紀後半頃の作風を示し、源信の活躍時期とも一致しますので、寛弘二年(1005)に源信が寺を再興した際の造立である可能性が考えられます。
さらに恵心院の境内からは、御覧のように宇治川をはさんで西に平等院の境内地が望まれ、鳳凰堂の屋根も見えます。平安時代の宇治において、恵心院は源信中興の天台浄土道場として重きを成していた筈なので、同じ天台浄土教の寺院として藤原摂関家が発願建立した平等院が、恵心院と向かい合う場所に寺地を定めたのも、偶然の結果ではないと思われます。
なにしろ、平等院の開基である藤原頼通自身が天台浄土教の熱心な信者であり、源信の信奉者でもありました。そして藤原頼通に任されて鳳凰堂に建築と仏像の双方によって西方極楽浄土の理想像を現出せしめた仏師の定朝は、若き修行僧の頃に比叡山延暦寺にて源信が主催した「霊山院毎日作法」という儀式の供養当番を務めた一人でした。
なので、平等院が恵心院との関連性によって創建されたのは間違いないだろう、という説を私は昔から何度も繰り返しているのですが、職場でも研究者仲間うちでも「それは思い込みだろう」と一笑に付されたまま、現在に至っております。
恵心院の地図です。いまでは江戸期創建同然の寺とみなされ、それ以前の歴史像が見えにくくなってしまっている恵心院ですが、位置といい、源信が中興した時期の本尊仏像を伝えていることといい、平安期には平等院と同等かそれ以上に重要な寺院であった可能性があります。その可能性に夢を馳せてみるのも一興でしょう。