白川谷にあった平等院の奥ノ院の白川金色院は、明治の廃仏毀釈で廃寺となって現在は広大な遺跡となっていますが、かつての安置仏像の一部が、遺跡近くの地蔵院という浄土宗の寺に所蔵されています。
白川金色院跡の惣門より表道に出て、右に約100メートルほど進むと右の宅地内に入る路地があり、それを進んで次の辻で左折すると、地蔵院への山門への路地道になります。その突き当りが上図の景色です。
山門脇に立つ文化財所蔵標識です。地蔵院の宝庫にかつての白川金色院の安置仏像の一部が収められており、それらの実年代が奈良時代から平安時代にわたるので、時期表記も「奈良平安時代」となっています。明治の廃仏毀釈にて白川金色院が廃寺となったときに建物は取り壊されましたが、残存していた仏像や什器類はこちらの地蔵院に引き取られ、現在は地蔵院の所有となっています。
なので、平成2年秋に初めて白川金色院跡を訪ねて行った際に、こちらの地蔵院にもあらかじめ見学の予約を入れておいて訪ねました。白川金色院の安置仏像の一部を拝観して、その素晴らしい作域に、かつての白川金色院の有様を偲ぶことが出来ました。
康和四年(1102)に四条宮藤原寛子が創建した白川金色院の本尊は文殊菩薩で、それを安置する本堂の文殊堂は金箔を用いて金色に仕上げた華麗なものであったと「白川別所金色院勧進状」に記されますが、その文殊菩薩像は残念ながら失われています。それと同時期の作とみられる木造の阿弥陀如来立像と観音菩薩坐像の2躯がいまに伝わってともに国の重要文化財に指定されています。
いずれも現在は京都国立博物館に寄託されていて、常設展示にて一度だけお目にかかったことがあります。でも、初めて行った時に地蔵院宝庫で見学した際の感動がまだ鮮やかだったせいか、博物館で見かけた時は「ああ、こっちに居るのか」程度の感慨にとどまったのを今でも覚えています。
地蔵院は、山号を朝日山といい、寺伝によれば戦国時代の弘治年間(1555~1558)に浄土僧の長柱によって現地白川村の惣堂としての地蔵堂が建立されたのに始まると伝わります。当初の本尊も地蔵菩薩であったと思われますが、現在は白川金色院の旧仏であった木造阿弥陀如来立像があてられているようです。
その木造阿弥陀如来立像が京都国立博物館に寄託されている現在、内陣の本尊仏壇は空になっているのだろうかと思いますが、今回の久しぶりの訪問では留守であったため、確かめることは出来ませんでした。
平成2年秋に初めて訪れた時は、地蔵院も白川金色院ゆかりの坊院の後身なのだろうかと思っていましたが、御住職に会って話を伺ったところ、前述の通り白川村の惣堂として創建された寺で、隣の白川金色院とは無関係だった旨を教えられました。明治の廃仏毀釈で白川金色院が廃寺となった折、当地にある唯一の寺が地蔵院であった関係で、白川金色院の残存仏像や什器類を引き取って今も守り伝えている、とのお話でした。
その時に御住職に上図の宝庫に案内されて、かつての白川金色院の安置仏像や什器の一部を拝見しました。土蔵のような造りの宝庫の扉が開かれて、中の電灯がパッと点けられて麗しい仏像たちの姿が浮かび上がった時の踊るような興奮と感動を、30年余り経った今でもよく憶えています。
当時の私は藤原時代仏像彫刻史専攻でしたから、藤原時代十二世紀代の木造の阿弥陀如来立像と観音菩薩坐像の2躯を特に念入りに見学したのでしたが、他の白川金色院旧仏であった銅造の小仏像4躯、阿弥陀如来及び脇侍像、阿閦如来(あしゅくにょらい)立像、釈迦如来坐像、大威徳明王騎牛像も丁寧に見た記憶があります。
このうち、阿弥陀如来及び脇侍像および阿閦如来(あしゅくにょらい)立像は奈良時代、釈迦如来坐像は平安時代初期頃の遺品で、いずれも白川金色院創建より前の造立になるので、四条宮藤原寛子が念持仏として祀っていたのを白川金色院創建後におさめた可能性が考えられます。そして大威徳明王騎牛像は藤原時代十二世紀の遺品で、これは白川金色院創建後に、当時宮廷や藤原一門にて流行していた大威徳明王への信仰によって造立されたものと思われます。これらも重要かつ貴重な白川金色院ゆかりの仏像でした。
以上の仏像群の印象が余りにも素晴らしかったため、白川金色院という寺のイメージもより鮮やかになりました。平等院の仏像群との関連性にも興味がわいてきて、一度詳しく調べて論文にまとめようかと考えました。それで、翌年の平成3年の4月に地蔵院を再訪して、再度の見学に望みましたが、その際に今度は銅造の小仏像4躯のほうに重点を置いて熱心に観察したものでした。
その4躯の銅造仏像のうち、阿弥陀如来及び脇侍像をのぞく3躯が、私が再訪して一か月後の平成3年5月に盗難にあい、今も行方知れずなのは、実に残念なことです。残った仏像が全て京都国立博物館に寄託されたのもそのためでしたが、おかげで白川金色院の遺跡と旧仏像とを共に現地で見学するという機会は、永遠に失われてしまったわけです。
平成3年といえば、30年余りの昔です。その頃の白川金色院跡や地蔵院はまったくの無名の存在でした。世間一般には知られず、研究者でも名前を聞いた程度の方が多かったと聞きます。実際に現地へ行って見て調べた恩師の井上正先生や私などは、珍しい部類に属した筈です。
なので、盗難にあった3躯の銅造仏像を盗難事件の一か月前に拝観した私は、ひょっとすると3躯の銅造仏像を間近に見た最後の見学者であったのかもしれません。
地蔵院の地図です。白川金色院跡の北東約120メートルに位置します。地蔵院所蔵の旧白川金色院仏像は、現在は京都国立博物館に寄託されており、時々常設展示に出ていると聞きますが、いつ出品されるかは事前には分かりませんので、見る事が出来たら幸運でしょう。