気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

宇治巡礼11 橋寺放生院

2023年02月01日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治橋の東詰から朝霧通りを20メートルほど歩くと、左手に上図の橋寺放生院の山門が建ちます。山号は雨宝山(うほうざん)、常光寺(じょうこうじ)を寺号とする真言律宗の寺院ですが、歴史的かつ現在の通称は「橋寺(はしでら)」で、地元民もそう呼びます。

 

 寺伝では、推古天皇十二年(604)の創建、聖徳太子を開基としますが確証はありません。境内に現存する「宇治橋断碑」の碑文には、大化二年(646)に元興寺の僧道登が宇治橋を架けた旨が記されており、その宇治橋の管理のために創建された寺ではないかという推測がなされていますが、これも仮説の域を出ません。

 橋寺の存在が知られるのは平安時代からで、いまも本堂に現存する安然様の不動明王立像の様相をみますと、少なくとも十二世紀頃には天台宗に属したようです。その後いったん衰微し、鎌倉時代の弘安四年(1281)に西大寺の僧叡尊が再興しています。現在も本尊として祀られる地蔵菩薩立像もこの時の造立とされ、再興造仏の次第が叡尊の自叙伝である「金剛仏子叡尊感身学正記(こんごうぶつしえいそんかんしんがくしょうき)」に記されています。

 その五年後の弘安九年(1286)に叡尊は宇治橋を復興させ、それに合わせて宇治川の中洲(現在の塔の島)に浮島十三重石塔を造立し、当寺で放生会を行いました。これによって「放生院」の院号を付され、後宇多天皇より寺領300石を下賜され、宇治橋の管理を命じられましたので、それ以降は「橋寺」の呼称で親しまれました。

 

 中世戦国期における橋寺は、宇治橋を管理する職務により地元の自治組織であった宇治会合(えごう)つまり宇治衆との関係があったようです。文明十一年(1479)には宇治衆と隣の三室戸衆との境界争いに端を発する騒乱に巻き込まれ、三室戸寺と論争になり攻められて放火され、壊滅してしまいました。これに怒った宇治衆は三室戸寺に報復して炎上させています。

 その後、室町幕府の援助により復興されましたが、江戸時代の寛永八年(1631)に火災に遭い、伽藍を焼失しています。その際に寺の重要な記録類も失われたようで、いま古文献史料が伝わらないのもそのためでしょう。
 なので、現在の寺観は江戸時代以降の再整備によるものです。山門と本堂の他は庫裏と小さな鎮守社があるのみです。本堂前に建つ上図の五輪塔は中世期の遺品で、おそらくは鎌倉時代の叡尊の再興事業に関連するものかと推定されます。

 

 境内の一角にある覆堂には、「宇治橋断碑」が収められています。宇治橋の開創に関する顕彰碑であり、江戸時代の寛政三年(1791)に境内から偶然に発見されたといい、原碑部分が上の三分の一程度残っているだけなので、断碑と呼ばれます。残りの三分の二は「帝王編年記」に収録される文章をもとにして原碑の失われた部分を推測して補ったものです。
 原碑は文章形式や書体からみて八世紀頃のものとされ、現存する最古級の石碑のひとつであります。昔から日本三古碑のひとつとされ、国の重要文化財に指定されています。

 この「宇治橋断碑」はいつでも見られるものではありません。3月から5月までと、9月から11月までの時期に限って公開されています。古代の貴重な遺品であるために撮影は不可なので、じっくり見て脳裏に焼き付けておくしかありません。

 

 橋寺の地図です。京阪宇治駅より歩いて3分、宇治橋の東詰の至近です。

 

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