韮崎市の武田八幡宮の続きです。拝殿の右脇から本殿を見上げた後、左脇へと移動しました。境内左側に上へと登る道があることに気付いたからです。回り込んでみると、本殿の建つ高台へと登る道がありました。
登りきると、本殿の左側の玉垣の横に着きました。玉垣を通して本殿とその横の摂社若宮八幡宮の建物がよく見えました。
本殿を見ました。八幡宮の本殿は八幡造とそれ以外に大別されますが、ここの建物は三間社流造という形式です。正面に三つの扉を持ち、檜皮葺の屋根が正面に流れています。室町期の建築にしては木割が雄大で装飾的意匠にも優れ、武田氏全盛期の気風が感じられます。
本殿の説明板です。色々と専門用語も交えて細かく解説してありますが、ちょっと長いので読むのに疲れてしまいます。案内板は専門書ではありませんから、もう少し平易な文章で分かり易く簡潔に述べて欲しいところです。
本殿の右隣には若宮八幡宮の社殿が建ちます。社伝によれば、甲斐武田氏初代武田信義の弟または叔父とされる武田遠光が承久二年(1220)に造営したとされますが、現在の社殿は鎌倉時代のものではなく、様式や手法からみて本殿より下る時期、戦国時代末期から江戸時代初期頃の建物と推定されます。
おそらく、甲斐武田氏の滅亡後に甲斐国主となった徳川家康が、天正十一年(1583)に社領を安堵し、平岩親吉に命じて当社の造営を行なった際に建て直したものであろう、と思います。
ところで、武田遠光といえば、甲斐国巨麻郡加賀美郷(現在の南アルプス市辺り)一帯に所在する加々美荘を本領とした甲斐武田氏の重鎮です。加賀美遠光の名のほうでよく知られています。源氏の弓矢の名手として知られ、時の高倉天皇に召されて宮中の怪異を鎮めるべく「鳴弦の儀(めいげんのぎ)」を執行しました。鳴弦の儀とは、魔気や邪気を祓うべく、弓に矢をつがえずに弦を引き、音を鳴らすことにより気を祓う魔除けの儀礼ですが、これによって怪異が治まったので、褒賞として不動明王像と近江国志賀郡を下賜されたといいます。
その不動明王像が、いまも身延町の大聖寺に伝わって国の重要文化財に指定されています。私は昔に一度拝観したことがありますが、京都仏師による優れた作域を示す、皇室や藤原摂関家の造立仏像クラスの超一級品でした。平安時代の天才画師と謳われた飛鳥寺玄朝の様風を立体化したような隙の無い完璧な十九観の彫像遺品でした。もとは宮中の清涼殿に祀られていたのを下賜されたと伝わりますが、この伝承は本物でしょう。
ちなみに、その加賀美遠光の三男の光行が、南部氏の祖たる南部光行です。ゆるキャンの聖地のひとつ「道の駅なんぶ」にある騎馬武者の銅像のひとです。
若宮八幡宮の説明板です。
再度本殿を見ていて、その屋根の棟木を飾る鬼瓦の中央に鬼の面が貼り付けられているのに気付きました。身延町の大聖寺本堂の鬼瓦にも似たような鬼の面が付いていてそちらは大笑いの面相なのですが、こちらの鬼は厳めしい形相です。まさに鬼瓦、です。
境内の脇にあった遺跡説明板。境内地の南の丘上にある白山城という中世戦国期の山城遺跡を紹介しています。武田信義によって武田館を護る要害として築かれ、烽火台として使用されたと伝わりますが、実際の縄張りは戦国期の本格的なものなので、武田信玄の時期にも整備維持されていたのでしょうか。
武田八幡宮、なかなか良い神社でした。甲斐武田氏が氏神として崇める以前から、当地の古社として知られた神社です。
社伝や古文献によれば創建は九世紀代で、なんらかの事情によって宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勧請し、地元武田郷の地名を冠して武田八幡宮と称したといいます。個人的にはそのあたりの歴史的背景にも興味があったのですが、現地にはそれに関する説明資料は見当たりませんでした。
ただ、現地の住所が韮崎市神山町北宮地で、古代からの神南備の地名に多い「神山」や「宮地」の表記が含まれるので、古代から続く地域の地主神的な存在であったのではないか、と推測します。 (続く)