宇治平等院の真東、宇治川の中に細長く横たわる中州状の島があります。「塔の島」といい、鎌倉時代に築かれた人工の島です。別に「浮島」「浮舟ノ島」とも呼ばれます。北の橘島と中島橋でつながって宇治公園の園地になっており、宇治川の東岸とは朝霧橋で、西岸とは橘橋および喜撰橋で結ばれており、観光客の定番コースとしても親しまれています。
この「塔の島」は平等院と宇治神社および宇治上神社をめぐる観光散策コースの中間点にあたり、宇治川の清流を間近に望んで四囲の景色も楽しめる人気スポットとして知られます。
上図は平等院の南側から喜撰橋を経て「塔の島」を見たところで、鎌倉時代以来何度も発生した宇治川の氾濫にもよく耐えてきた二段の高い護岸石垣が島の周囲を覆っています。
「塔の島」の名前は、島の中央に上図の十三重石塔が建っていることに因みます。十三重石塔は高さ15.2メートル、鎌倉時代の弘安九年(1286)11月に西大寺の僧叡尊によって建立されたもので、現存する近世までの石造塔婆としては日本最大最高の遺品です。国の重要文化財に指定されており、指定名称は「浮島十三重石塔」で、これが石塔の正式名称です。
この十三重石塔は、叡尊による宇治橋の修造事業に関連して建立されたものです。その目的は、宇治橋修造に際して上流に舟を模した形の人工島を築いて放生会を修する祈祷の場とすること、および、宇治川で漁撈される魚霊の供養と宇治橋の安全を祈念すること、でした。
この十三重石塔が建つ「塔の島」は、宇治川の流れを宇治橋の手前で受け止めて和らげる役目を果たしており、古代以来のたびたびの氾濫で宇治橋が破壊され流されてきた経緯をふまえて、橋へのダメージを少しでも抑えるために中州状の分離帯を設けて激流時の流れを左右にさばく機能をもっていました。
それで、鎌倉時代以降の度々の宇治川の大氾濫に「塔の島」はびくともせずに耐えてきましたが、十三重石塔のほうは激流に流されてしまったことが数度に及び、その都度建て直しが行われました。
しかし、江戸時代後期の宝暦六年(1756)の宇治川の氾濫は未曾有の規模であったため、石塔は倒されて川底の泥砂に深く埋もれてしまい、再興が不可能となってしまいました。
ですが、宇治の人々にとって宇治川のランドマークともいうべき十三重石塔が無いのは耐えられない、ということで明治三十八年(1905)に復興が発願され、二年後から宇治川の水流をせき止めて発掘作業が行われました。それによって九重目の笠石と相輪以外が川底より発見され、その翌年の明治四十一年(1908)に九重目の笠石と相輪を新たに制作して補った上で石塔が再建されました。
その後、元々の九重目の笠石と相輪も宇治川で発見されましたが、既に石塔は再建を終えていたので、それらは興聖寺に引き取られて現在は本堂の前庭に保管されています。
なので、現在の浮島十三重石塔の九重目の笠石と相輪だけが明治期の補作になります。下から見上げると、九重目の笠石だけが真新しいのが分かります。
上図のように、基礎の台石には1000字を超える建立縁起の銘文、初層の石芯には金剛界四仏の梵字が刻まれています。第一重の笠石の裏には薄く垂木型が刻まれています。笠石のそれそれには欠けや傷がみられて、氾濫で幾度も流された歴史を如実に伝えています。
浮島十三重石塔の地図です。塔の建っている「塔の島」は北の「橘島」とあわせて宇治公園になっています。