三峰神社の三ツ鳥居をくぐって、上図の登り坂の参道を進みました。夏のさなかですが、境内地は標高1100メートルの高山上にあって涼しいのでした。林間を吹き通る風が心地よくて、これならいくらでも歩いて回れるな、と思いました。
作中でもこの登り坂の参道がそのまま描かれています。参道の左手に見える三角屋根の建物は、神社の関連施設なのかなと思いましたが・・・。
実際の建物に近寄ってみたら、かつての交番でした。三峰神社の境内には交番があったんだな、と感心しつつ中をのぞいてみると、何かの備品や箱が置いてあり、物置のような状態でした。建物もかなり古いようで、昭和の交番、といった雰囲気でした。
交番の前を過ぎて左に曲がると、上図の門が見えました。随身門です。そこまでの参道は下り坂になっているので、この方向で合ってるのか、ちょっと迷いました。あの門をくぐってこちらに登ってくるのが正式な参道なのでは、と思ったからです。
それで立ち止まりましたが、他の観光客や参詣客はみんな一様に下り坂を降りて行って門をくぐっていくので、それが正しい参詣順路なのだろうと察して、私も道を下りました。
随身門に近づくと、右前に社号標が建ち、門前左右に守護神獣の一対が見えましたので、こちらが正面で参道はこのまま進めば良いのだと分かりました。
しかし、鳥居から登って、また下って門をくぐるという体験は初めてでした。神社の境内は一般的に傾斜地にあってずっと登る形であるのが一般的ですが、ここ三峰神社の場合はいったん小ピークに登ってから下って境内の中枢部に入る形になっています。
随身門にかかる大きな扁額には、「三峯山」の山号が雄渾な筆致で箔押しされています。門そのものは、江戸期の寛政四年(1792)の再建で、切妻造に軒唐破風を付けた大規模な八脚門です。徳川将軍家および紀伊徳川家の崇拝を受け、関東郡代伊奈家が直接の保護にあたった経緯により、東照宮のような豪華絢爛の造りをなして唐破風内には白鶴の彫刻をあしらっています。埼玉県の有形文化財に指定されています。
随身門前の左右には狛犬ならぬオオカミが参道に睨みを利かせています。狛犬はあんまり迫力ありませんが、流石にオオカミは迫力があり、ちょっと怖い雰囲気です。江戸期までは山犬と呼ばれた、ニホンオオカミの姿です。
まさしくオオカミですね。神社の門前のオオカミ像というのは初めて見ました。像自体は古いものではないけれど、境内の他の社にも同じようなオオカミの石像が侍っているのを見ましたから、ここでは狛犬ではなくてオオカミが神殿の結界を護っているわけです。
このオオカミの像を志摩リンも見上げたのでしょうが、作中では描写がありません。
随身門をくぐると道は平らになり、再び緩やかな登りに転じました。三峰山原生林の中は、左右のみならず頭上も深い樹葉の重なりに覆われて、緑のトンネルのようでした。
道の終点で右に向くと、上図のように本殿以下中枢部への登り石段が続き、一番上に青銅製の鳥居が聳えていました。
石段を登りきって青銅鳥居をくぐると、さらに一段高い所に拝殿が見えました。江戸期の寛政十二年(1800)の再建で本殿とワンセットで建てられて最も豪華な意匠に彩られます。壁面は朱塗り、柱は黒漆で磨き上げた、江戸期の最高格式の建築です。日光東照宮に続く、徳川家の全面支援による神社建築群の中枢部であります。
そういえば、江戸期の三峰神社は、徳川家より十万石の格式を拝領して繁栄し、同石高の大名家に等しい扱いを受けたと言います。現存の建築群がみな立派で見どころが多いのも、そのためです。
青銅鳥居の横にある案内板。八棟木灯台、って初めて聞くような名前・・・。手水舎(てみずや)には精巧な竜の彫刻・・・。
青銅鳥居の左側の手水舎を見ると、本当に立派で精巧で、極彩色の竜の彫り物が見えました。これは凄いな、と感心して見とれてしまいました。彩色の鮮やかさが目立つのは、建物の屋根裏から柱までの建物部分が胡粉(ごふん)で白く塗られて下地のように仕立てられているからです。日光東照宮の建築の手法と共通しています。
そして右側の八棟木灯台です。これまた豪華な木造の飾り灯台で、高さが六メートルに達します。この建築手法と規模の木造灯台は、西日本では見かけた記憶がありませんので、ものすごく珍しいなあ、と感動しました。屋根をのぞいて主軸部も塔身部も四方の神獣彫刻も全て朱塗りでまとめられ、各所に金の金具を配置して装飾するという贅沢さです。これだけでも相当な費用がかかっていることが分かります。三峰神社を関八州の守護と仰いで崇拝した徳川家の威信をかけての再建事業であったことが伺えます。
拝殿に登りました。寛政十二年(1800)の再建で、建物の全ての部材と装飾が色とりどりに塗られて、文字通りの豪華絢爛といった状態に仕上がっています。本殿とセットで意匠も共通していますから、本殿もまたこういった贅沢な建物なのだと理解出来ます。
日光東照宮といい、ここ三峰神社といい、江戸初期の徳川家関連の建築はこのような極彩色の贅沢な様相が一般的ですが、いずれにおいても、前政権の豊臣氏の豪華絢爛な建築群への対抗意識が明確に出ているなあ、と思います。
不思議なのは、ゆるキャン原作コミックにおいては、志摩リンが参拝したであろう三峰神社の豪華な建築群は、随身門すら描かれていないということです。建物が登場したのは、奥之院遥拝所だけでした。
作者のあfろ氏は、他の社寺、例えば久遠寺でも、光前寺でも、見附天神でも、主要建築群を殆ど描写せず、建物や門前などの一部などをさりげなく描き示す傾向がありますから、三峰神社に関しても同様なスタンスである、ということでしょうか。 (続く)