健康自由メモ(高齢者の健康メモ)

高齢者の健康自由日記

昭和20年(1945)3月10日“東京大空襲”

2009年03月10日 | 1.自由日記・健康雑感

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 昭和20年3月10日「東京大空襲」は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた東京に対する空襲のうち、1945年(昭和20年)3月10日のものを一般的に指すが、太平洋戦争に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られているる。  この時私は新潟県の田舎町の小学校3年生でこの[悲惨な空爆の出来事]は全く知らなかった。(・・・当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。・・・・・:引用文
  詳しい事実を知ったのは10年以上経た頃だと思う。 空襲の前の2月23日日本陸軍は硫黄島(現東京都:自衛隊基地)の戦いで玉砕し、当時の米陸軍の最新鋭長距離戦闘機Pー51マスタングが硫黄島から米陸軍B29戦略爆撃機300機余りを護衛し、未明にテニァン諸島(サイパン・グァム)から制空権を失った日本本土に飛来し焼夷爆弾32万発(1.700t)も投下し10万人以上の死者、焼失家屋27万戸、犠牲者は100万人とも言われ、東京の約1/3を焼けつくした。 

  
アメリカからみた【東京大空襲】第二次世界大戦


   この空爆下の中、女優の「吉永小百合」さんが東京の下町で生まれている。 東京大空襲 から広島・長崎の原爆等投下そして8月15日の終戦となったが、その翌々日だったと思うが新潟沖に停泊している航空母艦から飛び立ったグラマン戦闘機10数機が超低飛行で我がもの顔で我が町を何度も旋回していたのを今でも眼に焼きついている.


 

 東京に勤務の頃S.Hさんと仕事を2年一緒に仕事をしたが彼は5歳年下だから4歳の時であろう、東京大空襲に遭遇したと言う。 両親・家族は爆撃で死の犠牲となり、さ迷よっているところを、幸いにも子宝に恵まれない「物指師」職人夫婦に“言問橋”付近で保護され養子となった。 戦後は誰でもそうであるが、野球に熱中していたが、彼も養子父母に愛され育ち、野球少年から中学・高校で野球選手と活躍し青山学院大学へ進学した。 そして青山学院野球部のエースピッチャーとなった。 
 その彼が東都大学リーグ公式戦で初の「パーフェクトゲーム(完全試合)」を成し遂げた。 パーフェクトゲームまで「あと一球」のナインの心境話を実直で酒好きの彼から何度も聞いたが、9回裏にもなるとチームの全野手が「あと一球(あとひとつ)」の打球が自分の方向にくるなと祈ったそうだ。  彼はプロ野球「日本ハム」球団に顔が広くずいぶんと”後楽園ドーム球場”のフリーチケットを融通してもらった。

 この悲惨な「東京大空襲」から64年、高齢になった犠牲者やその遺族が国を相手に「戦争責任」および「保障と謝罪」を求めて一昨年、113人の原告団が結成されている。
 そのS.Hさんが故人となって7年にもなろうか。

4274歩


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1 コメント

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Unknown (ととまじり)
2009-03-10 23:19:47
富山の空襲を医王山麓の田圃の畦道に座り大人達にまじってふるえながら眺めていました。空から何が降るのか、ちかちかと下は真っ赤な夕焼けのようでした。今でも忘れられない光景です。戦争を知る人も少なくなってしまいました。
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