良く、父兄や児童から「社会に出てから役に立つ勉強を教えて欲しい」と言う意見が出るのだが、一体何を要求しているのかサッパリ理解ができない。
「社会に出てから役に立つ勉強」と簡単に言うが、大学を出てから社会に巣立つと仮定して、高校生では4年から7年、中学生では7年から10年、小学生に至っては10年から16年も後の社会がどうなっているか想像できるのであろうか?。
明日がどうなるかもわからないというのに、そんな先のことなど誰にもわからないはずで、「昨日役に立った事が今日は役に立たない」と言う事だってけして珍しい事ではない現代社会、なんとも「単細胞的」な考え方ではないだろうか?。
突然こんな事を書き始めたのは、今日の午後に近所の中学生が二人いる母親の話を聞いていて、10日ほど前の話を思い出したのである。
10日ほど前の話とは、ドコモショップで携帯の解約をしたときの話で、担当の店員が35歳の男の人だったことがキッカケで、35年前のことを思い出したのである。
現在では、携帯電話でも固定電話でも「何時でもすぐに手に入る」と言う時代になっているのだが、35年前には、携帯電話など当然の話無いのだが、「固定電話でさえすぐには手に入らない」と言う時代だったのである。
私が35年前に、東京から現在の所に家を建てたときに、勤務先の社長から「電話がないと仕事に不便だからすぐに申し込め!」と言われて、NTT(当時は確か電電公社と言っていたと思うが)に申し込んだのであるが、受付の人は「回線に空きが無いのでしばらくお待ち頂きます」と言い、「どの位かかりますか?」と言う質問には「さあ?・・・、今年度の回線工事の予定は今のところ無いので、来年度以降になると思います」と言うのである。
結局、電話がつながったのは1年半以上後のことで、3年近く待った人もいたようである。
僅か35年がこんな状態だったのに、現在の「小学生まで携帯電話を持っている」と言う時代を、一体誰が想像したであろうか?。
原油高騰をはじめ、鉱物資源の枯渇と高騰、小麦、トウモロコシ・・・・・と、一体ダレが予想したと言うのであろうか。
予想できなかったからこそ、日本どころか、世界中が混乱しているのである。
仮の話し、学校教育で「社会に出てから役に立つ勉強」を教えられたとした所で、子供が社会に巣立つ頃には「時代遅れ」になってしまうだろう。
「社会に出てから役に立つ勉強」とは、「学校で学ぶこと」+「日常生活から学ぶこと」+「自助努力」で、「自助努力」が最も重要ではないだろうか?。
いくら学校教育に求めたとしても、「将来の事は予測不可能」なのだから、「求めるだけ無駄」と言う事になるだろう。
それよりも、学校での勉強は「将来社会に出たときに備えた基礎を築く」と考えるべきで、平屋の家を建てるのであれば「ブロックを並べた程度の基礎」でも建てることは出来るだろうが、「超高層ビルを建てることは出来ない」と言うことと同じで、「学校でどれだけ基礎を学んだか?」が、「その人の将来を決める」と言う事になりはしないだろうか?。
ついでだが、「失敗」と言うものも重要なことだと思うのだが・・・・。
誰だったか忘れたが、「勝った試合からは得る物は無いが、負けた試合(失敗)からは得るものが沢山ある」と言っているではないか。
正に、「失敗は成功の元(母)」である。
科学技術の発達により「便利な世の中」にはなったのだが、その一方で「他力本願」と言う傾向が強くなり、「自助努力」と言うことが疎かになっている。
科学や技術の専門家は「少しでも良い物を、便利な物を」と考えているのだが、悪い言い方をするならば「親切の押し売り」と言う事にはならないだろうか?。
一部のリハビリの現場ではこの事に気が付いて、「自分自身の努力(自助努力)で機能を回復させる」と言う取り組みを始めているが、「自助努力」はリハビリの為だけにあるものではなく、全ての人に求められるものではないだろうか?。
他力本願を当てにしていれば、最終的には「泣くのは自分自身」と言う事になるだろう。
「基礎の重要性」と言うものを認識しなければ、その先に待つものは?・・・・。
「社会に出てから役に立つ勉強」と簡単に言うが、大学を出てから社会に巣立つと仮定して、高校生では4年から7年、中学生では7年から10年、小学生に至っては10年から16年も後の社会がどうなっているか想像できるのであろうか?。
明日がどうなるかもわからないというのに、そんな先のことなど誰にもわからないはずで、「昨日役に立った事が今日は役に立たない」と言う事だってけして珍しい事ではない現代社会、なんとも「単細胞的」な考え方ではないだろうか?。
突然こんな事を書き始めたのは、今日の午後に近所の中学生が二人いる母親の話を聞いていて、10日ほど前の話を思い出したのである。
10日ほど前の話とは、ドコモショップで携帯の解約をしたときの話で、担当の店員が35歳の男の人だったことがキッカケで、35年前のことを思い出したのである。
現在では、携帯電話でも固定電話でも「何時でもすぐに手に入る」と言う時代になっているのだが、35年前には、携帯電話など当然の話無いのだが、「固定電話でさえすぐには手に入らない」と言う時代だったのである。
私が35年前に、東京から現在の所に家を建てたときに、勤務先の社長から「電話がないと仕事に不便だからすぐに申し込め!」と言われて、NTT(当時は確か電電公社と言っていたと思うが)に申し込んだのであるが、受付の人は「回線に空きが無いのでしばらくお待ち頂きます」と言い、「どの位かかりますか?」と言う質問には「さあ?・・・、今年度の回線工事の予定は今のところ無いので、来年度以降になると思います」と言うのである。
結局、電話がつながったのは1年半以上後のことで、3年近く待った人もいたようである。
僅か35年がこんな状態だったのに、現在の「小学生まで携帯電話を持っている」と言う時代を、一体誰が想像したであろうか?。
原油高騰をはじめ、鉱物資源の枯渇と高騰、小麦、トウモロコシ・・・・・と、一体ダレが予想したと言うのであろうか。
予想できなかったからこそ、日本どころか、世界中が混乱しているのである。
仮の話し、学校教育で「社会に出てから役に立つ勉強」を教えられたとした所で、子供が社会に巣立つ頃には「時代遅れ」になってしまうだろう。
「社会に出てから役に立つ勉強」とは、「学校で学ぶこと」+「日常生活から学ぶこと」+「自助努力」で、「自助努力」が最も重要ではないだろうか?。
いくら学校教育に求めたとしても、「将来の事は予測不可能」なのだから、「求めるだけ無駄」と言う事になるだろう。
それよりも、学校での勉強は「将来社会に出たときに備えた基礎を築く」と考えるべきで、平屋の家を建てるのであれば「ブロックを並べた程度の基礎」でも建てることは出来るだろうが、「超高層ビルを建てることは出来ない」と言うことと同じで、「学校でどれだけ基礎を学んだか?」が、「その人の将来を決める」と言う事になりはしないだろうか?。
ついでだが、「失敗」と言うものも重要なことだと思うのだが・・・・。
誰だったか忘れたが、「勝った試合からは得る物は無いが、負けた試合(失敗)からは得るものが沢山ある」と言っているではないか。
正に、「失敗は成功の元(母)」である。
科学技術の発達により「便利な世の中」にはなったのだが、その一方で「他力本願」と言う傾向が強くなり、「自助努力」と言うことが疎かになっている。
科学や技術の専門家は「少しでも良い物を、便利な物を」と考えているのだが、悪い言い方をするならば「親切の押し売り」と言う事にはならないだろうか?。
一部のリハビリの現場ではこの事に気が付いて、「自分自身の努力(自助努力)で機能を回復させる」と言う取り組みを始めているが、「自助努力」はリハビリの為だけにあるものではなく、全ての人に求められるものではないだろうか?。
他力本願を当てにしていれば、最終的には「泣くのは自分自身」と言う事になるだろう。
「基礎の重要性」と言うものを認識しなければ、その先に待つものは?・・・・。